恋するだけでは、終われない
第四話
ブレザーの胸ポケットには、物を入れないほうがいい。
以前、どこかでそんな話しを聞いたことがある。
「海原。ちょっとそれ借して」
午前中、最後の授業に向けての休み時間。隣の席に座る高嶺由衣が、僕の胸ポケットに刺してあるボールペンを取ろうと、手を伸ばしてきた。
すると同時に、なにかが胸ポケットから現れかける。
「ん?」
「ん??」
高嶺と僕が、その『なにか』に気がついて。
反射的に、手で取り出そうとしたアイツと。わずかに遅れて、胸ポケットの中身を思い出し防御に入った僕が体をひねるのが同時で。
「ゴン」
やたらと鈍い音を立てて、ふたりの。
いや僕からすると、栗色の髪の毛が付着した塊と……激突する。
互いに、その場で無言でうずくまる。
い、いったいなんなんだ?
い、石頭にも程がある……。まるでコンクリートか、それとも中華鍋で殴られたみたいに、あ、頭が……。
「か、カイハラ! あと高嶺さんも大丈夫?」
僕のひとつうしろ席に座る男子が、心配そうに声をかける。
……えっと、君は誰だっけ?
「山川俊だよ、もう忘れられたの三回目だぜ……」
「あぁ、悪気はないんだ、ごめんな、山川」
そうやって、僕は謝りながらも思うのだ。
山川、僕の苗字は海原だ。しかも、間違えたのは三回よりも多いと思うぞ……。
「悪いけど、山川君。ウナハラはウナハラだからさぁ〜」
引き続き頭を押さえている僕と対照的に、すでに髪の毛の乱れを直しながら高嶺がいう。
え? お前、痛くなかったの?
「自己紹介でもいってたでしょ。ちゃんとそういうの聞いときなよ」
あ、ありがとうだけれど……。僕は、高嶺が暴走しないか心配になる。
中学生のころ、散々男子たちがいってきたことは。
「高嶺さんって、『黙っていれば』めちゃくちゃかわいい!」
当の本人は、そのたびに。
「ぜーんぜーん褒め言葉じゃないよね! わたしに息するなっていってるのと同じじゃん!」
そうやって僕に怒りをぶちまけてきて。
「もういい! 高校行ったらキャラ変えてやる!」
なんかそう、宣言してたのに。
「まぁまぁ高嶺……。それよりお前、頭は大丈夫か?」
「はぁ?『頭』は元々大丈夫ですけど! 大体アンタがさぁ……」
どうやらいいかけたところで、高嶺が一応、僕の心遣いに気づいたらしく慌てて口をチャックする。
実際のところアイツはやや不満そうだが、それでもこのたびはなんとか。新たなキャラを演ずるべく、努力できたようだ。
よかった、これでめでたしめでたし! ただ、そうやって終われないのが……。
「でさ、さっきのなに?」
そうだった……。
以前からコイツの執念深さは、並大抵のものではなかったんだ……。
胸ポケットには、今朝並木道で渡された、謎の青みがかった淡い紫色のカードが入っている。
そもそも、カードを見られるのもまずいが、それ以上にまずいのは……。
「あとで、読んでもらえるかしら?」
そんな三藤月子の声が、頭の中でこだまする。
あぁ。カードを、裏返すだけだったのに……。
そう、あのカードは未だそのまま。ブレザーの胸ポケットに、しまわれている。そして僕は、まだそれを読んでいない……。
裏返してなにもなければ、ただのカードだ。だが、一切なにも書いていない訳はないだろう。となると、内容を知る前に。
コイツに見られるのは、避けなければなるまい。
「……あぁ、もうすぐ授業だな。次、英語だっけ?」
「海原、なに入ってたの?」
「そうだ。ト、トイレにでも行ってこようかな……」
「アンタ、前の休み時間に行ってたよ。で、なに入ってるの?」
「き、きっとなにもないよ。気のせいだ……」
「ふーん。で、いつ見せてくれる気?」
高嶺の目が細く、細く、もっと細くなっていく。
……あぁこれは、明らかに不機嫌なやつだ。
「あぁ〜。頭痛いな〜。髪の毛、ぐちゃぐちゃになっちゃったな〜」
まるで駄々っ子のようだが、これはまだ見せられない。
「気になると授業に集中できないな〜」
「え、えーっと。次の休み時間とかでもいいか?」
「はぁ? アンタ人の話し聞いてないでしょ!」
た、確かに……。
「まぁ見せてくれないならそれでいいよ。アンタって高校生になったら変わっちゃったんだ、って思うことにする」
うう……。なんだか、まだ季節は暑くないのに、汗が出そうだ。
もう、これは。覚悟を決めるしかない!
……って、いったいどっちにすればいい?
結局……。
高嶺のほうが、大人だった。
「もういいよ。それでしょ? なんか今朝の騒ぎの原因って」
「えっ!」
「そんな驚かなくてもいいじゃん。知ってたから。……っていうか聞こえちゃったんだよね、みんなあのあと廊下で騒いでたし」
高嶺が、栗色の髪の毛に右手の人差し指を絡ませ、少し首を斜めに傾ける。
でもいまは、その大きな目は笑っていない。
「わたしより、初めて会った先輩のほうが大事だもんね……」
いや、そんなことはない。
でも、そう伝える前に……。
無情にも授業の始業チャイムが、鳴ってしまった。
……そのあとの授業は英語ではなくて、世界史で。もちろん授業の中身など、ちっとも頭には入らない。
僕は時折、高嶺のほうを見るけれど、目が合うことなんかなくて。
代わりに、意地でも僕の存在を排除しているという、強い意志だけはひしひしと伝わってきた。
ようやく次のチャイムが鳴り、昼休みになる。
「……あ、あのさ、高嶺」
アイツは無表情のまま僕を見ずに。
左の手のひらでストップと意思表示をしてから、背中を向けたまま女子たちの集まる机へと移動していく。
「わたしに声をかけたからといって。一緒に教室でお昼を食べるつもりなんてないでしょ」
本当かどうかは、わからなないけれど。僕には、高嶺のそんな声が聞こえてきそうだ。
アイツとのやり取りを、知ってか知らずか。
「一緒に弁当食べようぜ」
山川が他の男子たちと声をかけてくれる。だけど高嶺と同じ教室で、白々しく弁当を食べるのに気が引けた僕は、その誘いを丁寧に断ると。ひとり教室を出た。
……まだ、入学して一週間なのに。
ちょっとした出来事ひとつでまた、空気が変わってしまった。
とりあえずどこかで、弁当を食べよう。
でもまだ校舎の全容がつかめないので、果たしてどこで食べたものか……。
そんなことを考えながら三クラス分の廊下を進み、中央階段に差しかかると。
二階のほうから、風がやさしく吹き抜けた。
「あ……」
「……あ」
ふたりの「あ」は、同時だった。
もっとも声は、僕のほうが出ていたけれど。
「三藤先輩、ですよね?」
その女子生徒は、一瞬うなずいたような素振りをみせたが。それから慌てて、僕の視界から消えようとする。
「待って下さい!」
僕は思わず、呼びかけながら階段を駆け上がる。
すると彼女は、くるりと向きを変え。あの規則正しい歩幅で、僕のほうへと進み出す。そして僕たちは再び、近過ぎないが遠くもない。そんな絶妙な距離で、立ち止まる。
「今朝は、ごめんなさい」
三藤先輩は、ややうわずった声でそういうと。
きれいな角度で、頭を下げる。
「あ、いえ。別にそんなに気にしていませんので……」
いいながら僕は、つい周囲に誰かいないかと気にしてしまう。
「食堂は開いていないわ。だからきょうは教室でお昼を食べ終えるまでは、この辺りは静かなはずよ」
まるで僕の考えを見透かしたように、先輩はそういうと。
「さぁ、行きましょう」
また向きを変えて、歩き出そうとする。
「え……」
驚いて固まる僕を見て。三藤先輩が、少し残念そうな顔になる。
「ねぇ海原くん……。まだわたしのメッセージ読んでいないでしょう?」
続けてそう口にする、三藤先輩の表情は。今度は少し怒っているようにも見える。
……ところが。
続いて意外な言葉が、三藤先輩の口から出る。
「ちょっとひどいわ……。わたしとしては、結構勇気の必要な行動だったのよ……」
思いがけない言葉に、再度固まる僕を見て。
三藤先輩は、両手で慌てて口を押さえてしゃがみ込む。
長く艶のある髪の毛の隙間から見える両耳が赤くなっているのが、僕でもわかって。
「す、すいませんでした!」
慌てて、僕はそう謝ってから。
「ちょっと今朝は騒ぎになって余裕がなくって……。い、いまからメッセージ拝読しますんで。ちょ、ちょっと待っていて下さい!」
いい終えると僕は、胸ポケットに手を入れて、急いでカードを取り出そうとする。
「も、もう読まなくていいわよ〜」
そういいながら、立ち上がった先輩が。
僕が裏返そうとしたカードを取り返そうとした、そのとき。
「ちょっとさぁ……」
「え?」
「……校内でいちゃつくの、やめてもらえないかなぁ?」
い、異様に冷たい声がすると同時に。
振り返ると女性がひとり、両腕を組んで。
とても険しい表情で立っていた……。