恋するだけでは、終われない

第三話


 玄関ホールからのんびりと歩き始めた僕を。一瞬誰かが、呼んだ気がして。
海原(うなはら)(すばる)君!」
 今度は、はっきりとフルネームで呼ばれて。驚いて、声のしたほうを向く。

 そこには三年生を示す色のリボンをつけた女生徒が、ニコニコしながら大きく右手を振っていて。
 隣の長身の男の先輩も、軽く左手をあげてから、敵意のない目で僕を見ている。
「驚かせてごめんね!」
 あぁ、今朝も聞こえたのは、この声だ。
「わたしは、三年一組の都木(とき)美也(みや)。よろしくね! あとはこっちは同じクラスの、長岡(ながおか)(じん)くん」
「おう海原、よろしくな!」
 明るい声と、力強い声のそれぞれに挨拶までは返せたけれど。
 いったいこのふたりは、どうして僕を呼び止めたのだろう?

「ちょっとこっちに来て」
 とてもきれいな先輩と、バレーボール部のユニフォームの男子に呼ばれて。僕は自分が向かうべき教室棟とは、反対側のほうへと誘導される。
「もうこの辺なら大丈夫かな。いやー、びっくりしたよねー。わたしだって驚いたよー」
 周囲の人けが減ると、都木先輩は明るく笑う。

「えっと、海原君が最初に会った子は、三藤(みふじ)月子(つきこ)ちゃん。で、あとからきたのがわたしの幼馴染で、春香(はるか)陽子(ようこ)
 なるほど、さっきのふたりのことか。
 ただ、あえて訂正するのなら……。
 僕が『最初』に会ったのは。
 ……都木先輩、あなたですよ。

「でね、月子ちゃんって。校内では陽子以外とは誰とも話さないって、有名なのよ〜」
 都木先輩に僕の心の声が聞こえるはずもなく。先輩は、どんどん話しを進めていく。
「なのに今朝はわざわざ人の集まる所に出てきた上に、いきなり海原くんに話し出したもんだから……。周りからしたら、あり得ないことだらけで、ほんと大事件、ってわけ!」
 都木先輩が、大真面目な顔で教えてくれるんだけれど。
 でも、その表情がどこか……。
「あと、それに陽子が……」
 続けてなにか話そうとした都木先輩が、ここで一瞬止まって。
 しばらくすると、吹き出した。
「ご、ごめん……! 陽子があんなこというから、つい……」

 僕も、自分自身であの瞬間をリプレイしてみる。
「ちょっと無理!ごめんねー!」
 確かに……。
 あれでは周囲が色々誤解しても仕方のないセリフだと、改めて僕も思った。
「あれじゃ、最悪の返しだよね〜。ほんと陽子が、ゴメン!」
 都木先輩がまだ笑っている。
 この先輩は、ひょっとして幼馴染のために。僕に代わりに謝ってくれているのだろうか?
 都木先輩と春香先輩は、とても仲がいいのだろう。
 そして、その春香先輩は、三藤先輩と仲がいい。

 なんだか、急に最悪から害悪がすべて取り除かれて。
 僕は自分の身に起こったことが、単なる笑い話しに思えてきた。

 ……それに。
 まぶしい笑顔とは、まさしくこのことをいうのだろう。
 都木先輩を見るとつられて、思わず僕も笑顔になってくる。
「お、意外とタフなんだね、海原くん。よかったぁ」
 都木先輩はそういうと。
 今度は心から安心したような顔で、もう一度笑顔になる。

「まぁ仲良しのふたりのしたことだから……、とにかくごめんなさい」
 ただ、このときだけは。
 都木先輩が一瞬、悲しげな表情を浮かべた気がする。

 長い髪の毛が、床と垂直になるほど、まっすぐに伸びて。
 都木先輩が僕に頭を下げる。
「い、いえ。別に都木先輩がなにかした訳でもありませんし!」
 怒ってもいないし、そこまで謝らないで欲しい。僕は慌てて先輩にそう告げる。
「でもね、陽子はわたしの幼馴染だし、月子ちゃんだっていい子なの!」
 な、なんてまっすぐな先輩なんだ……。いきなり、見ず知らずの一年生のために、そこまで謝れるなんて。
 なんだか都木先輩って……。

「素晴らしい女性だぞ!」
 突然割り込んだ長岡先輩が、豪快に笑いながら、自慢げに口にする。
 一方の都木先輩は、やれやれという顔をしてから。
「男子って単純だからねぇ……」
 そんなことを口にするのだけれど。
 ただ、その表情は照れ隠しとかではなくて。なにかやはり、悲しいというか寂しげな印象がした。

 都木先輩その表情の奥には、いったいなにが隠されているのだろう?
 残念ながら。
 ……まだ出会ったばかりのこのときの僕には、ちっともわからなかった。

 それからまた、都木先輩が一瞬なにかいいたげな顔をして。仕方ない、と取り下げた気がする。
 僕は少し気にはなったけれど。この先輩にはまた会う機会が近々やってくる、なぜだかそんな予感がした。


「しかし美也、きょうはやけにしゃべるよな?」
「えっ?」
 長岡先輩の不思議そうな表情に、都木先輩が驚いた顔をする。
「そ、そんなことないよ。いつもと変わらない!」
「そうか? なんか機嫌よさそうだけどな?」
「もぅ、長岡くん。そんなことはいいからさ。海原くんを教室まで送ってあげてよ!」
「えっ?」
 このまま会話がもう少し続いて、じゃぁ失礼します、みたいな展開だと思っていたのに?

「……お、おう! まぁこれでも、少しは人望はあるつもりだ」
「い、いえでも……」
「心配すんな。俺と教室まで行く。そしたら少しは周囲の誤解も解けるだろ!」
 あ、ありがとうございます……。
 一応ここは、感謝なんだろう。ちょっと、嫌な予感もするのだけれど……。
 そんな僕に、長岡先輩がニヤリと笑うと。
「よぉし」
「へ?」
「感謝のついでに、バレー部入部しないか? お前身長もそこそこ高いしな」
「え……」
「ちょっと、長岡くん! 変な恩を売っちゃダメでしょ!」
 そうやって僕を救ってくれた、都木先輩に感謝のお辞儀をしたのを見届けると。
「よし、行くぞ!」
 長岡先輩は威勢よく、僕の教室へと進み出した。



 ……教室棟一階の一番奥にある一年一組の教室に通い始めて、一週間になる。
 七クラス分続く、長い廊下を歩くあいだ。
 僕は『肌感覚』という言葉の意味を、かみしめる。

 並木道での出来事を直接見た新入生は、そう多くはないだろう。ましてやまだ入学して一週間だ、そもそも顔と名前が一致していなくてもおかしくない。
 だが、そんな僕の目論見は甘かったようで……。
 いやむしろ、周囲がそれを許さなかったのかもしれない。

 サービス精神旺盛な長岡先輩が、僕を連れて一年生の廊下を行脚する。
 長身で、いわゆるイケメンの範疇に入るだけでも目立つのに。よりによって、ユニフォームのまま歩くものだから……。
 女子が気にするし、男子はなにごとかといぶかる。
 そこから呼応するように、先程の並木道での出来事が。間違いばかりの伝言ゲームとして広まっていくのが、嫌でも僕たちの耳に聞こえてくる。

「あ、あの長岡先輩。非常にいいにくいんですけど……」
「お、おう」
「こ、これってなんか逆効果になってませんか?」
「そうだな、俺もちょっと失敗したかと思い始めた。すまん……」
 まったく、素直というか、まっすぐというか……。
 残念ながら、不器用な男ふたりでは。
 この妙な空気を、どうしても吹き飛ばせそうもないらしい。

 残念ながら、僕のクラスへの道のりはまだ三クラス分も残っている。
 だがそのとき、真空砲、ではなくて。
 高嶺(たかね)由衣(ゆい)のまっすぐな声が、一組のほうから一直線に飛んできた。
「ちょっと海原! アンタ日直だよ。今度はなにしてんの!」
「す、すいません!」
 練習で、顧問に怒られたときの反応なのか。
 反射的に僕ではなく、隣の長岡先輩が返事をしてしまう。
「え、なに? ……って、先輩じゃん!」
 さすが高嶺だ。長岡先輩を前にしても、態度が大きい。
「お、おう……。まぁ気にするな」
 その気配に押されてか。逆に長岡先輩がアイツに謝られるよりも先に、許してしまった……。


「はじめまして。海原の『保護者』の、高嶺由衣です」
 なんか、後半余分じゃないのか? まぁそれはさておき。
 よそ行きモードのスイッチが入ったアイツは。
 肩を少し越えた長さで、先端にややウェーブのかかった栗色の髪の毛に、右手の人差し指を絡ませて。
 少し首を斜めに傾けながら、その大きな目を精一杯細めて笑顔になる。
「お前さぁ、その笑顔、わざとらしいっていってるだろ……」
「ちょっと! 一応先輩の前だから愛想振っただけで、アンタにやったんじゃないから黙っててよ!」
「おいそれ、先輩本人の前でいったら意味ないだろう……」
「うるさい! ならそもそもいわせないでよ!」

 そんなやりとりを、思わず口を開けて眺めていた長岡先輩は。突然、野太い声で豪快に笑いだしてから。
「なんだ海原、もう大丈夫だな! よし。じゃ、またな!」
 いうが早いか、向きを変えるとダッシュで消えていく。
 高嶺は、そのコミュニケーション能力をいかんなく発揮して。
「ありがとうございました〜」
 笑顔で手を振って、見送っている。

 ……そう、救世主はまたしても高嶺だった。
 なんだかわからないけれど。
 このやり取りを見ていた周囲の生徒たちが、なにかを勘違いしたようで。並木道での出来事に関する一年生たちの誤解や噂話は、見かけ上ではほぼ吹き飛んだ。

 実際、他の新入生たちだって忙しいのだ。新しい学校、友人関係、部活動、勉強やらなんだかんだと。やることは、山ほどある。
 それに上級生たちのことも、まだそれほど知らないし、わかっていない。
 だから大抵の一年生は、今朝もいまの出来事も。既に仲良くなった、先輩後輩の関係を見ただけだと理解して。自分たちも、早くそんな流れに乗らなければと焦ったようだ。


 ……こうして僕は、暗黒の高校デビューを逃れることが出来た。
「高嶺、ありがとう!」
 僕の明るい声に驚き、アイツが訝しげな表情を僕に向ける。
「ね、ねぇアンタさぁ……。なんか変なこととか、企んでないよね?」
「なんだよそれ? 別にないぞ」
「じゃ、じゃぁいいんだけど……」


 ……大切なことだから、念のためくりかそう。
 僕はなにも、企んではいなかった。

 そう、このときはまだ。


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