桂花の香りは千里先まで

2 払暁

美術の授業が終わり、階段を下っていた。
いつもの教科書に、いつものメンバーで。
いつものように話すことは、居心地がいい。
ただひとつ、いつもと違うことがあるとすれば、今日は、指先がほんの少しだけ絵の具で汚れている。
私はいつもと違うことが苦手だ。
なにか新しいことを始めるのは好きだけど、なにか新しく変えられるのは好きじゃない。
卒業式のある3月や入学式のある4月は特に嫌いだ。
今まで居たはずの存在が旅立ち、今まで居なかったはずの知らない存在が現れる。または、今までいた所から違う所に行って、違う人の居るどこかに足を踏み入れる。
そんなことに、どうしてみんなすぐに慣れるんだろう。
そんな私でも、今のところ楽しく学校生活を送れているのは、間違いなく千穂と楓のおかげだろう。
そんなことを思いながら、いつもと違う指先に視線を移して、付着した絵の具を見た。
手を顔の前にかざすと、くすんで見えた絵の具は鮮やかな赤色にみせた。
すると、指の隙間から、男の子数人がこちらに向かって歩いてくるのがみえた。
そしてまた心臓がはねた。
━━━あの人だ。
どんなに遠くても、ぼやけてても、分かる。
見間違えるはずがない。
ずっと、遠くから見ていたから。
急いで、胸ポケットから折りたたみ式の小さな鏡を取りだして前髪を整えた。
そのまま彼らと狭い廊下を数センチの距離ですれ違った。
それだけで終わった。
彼は私の事なんて見ずに、ただ前を真っ直ぐ見つめていた。
何かに期待していたわけじゃないけれど、やっぱり、私には視線を惹きつける容姿がないと言うことを思い知らされる。
「≡≡≡さあ、さっきもジュース買いに行ってたろ。どんだけ買うわけ」
「いいだろ、べつに」
彼は友達からの呼び掛けに、うざったそうに返事していた。
(名前。知らないな。)
呼び掛けの彼の名前だけ聞き取れなくて、少し悔しく思う。
(ショウ…っぽくはない。レンでもないな。)
かっこいい男の子のにありがちな名前を勝手に彼にあてはめて想像した。
なんとなくどれもしっくりこない。そりゃまあ、安直に思いついた名前ではしっくりくるはずがないが。
なんて名前なんだろう。
そう思いながら振り向いて、すこし小さな彼の背中を見つめた。
彼の履いているのは、青の上靴だから学年が違うというのだけはわかる。そうなると、私が持っている名簿は、1年しか載っていないから使い物にならない。
そして、 「…あ、」 と声が出た。
うちの学校は、上靴に名前を書くのが義務化されている。
上靴のかかと部分を見ることが出来れば、名前を知ることが出来るかもしれない。
すこしストーカーまがいな考えだが、彼のことを知りたい気持ちが溢れかえっている今の私には留めることは出来るはずが無かった。
「2人とも先帰ってて!あ、あのー…わたし、ジュース買ってからいく!」
つい声が大きくなって2人とも驚いていたけれど、「あ、じゃあわたしのも買ってきて」と特に追求はなく送り出してくれた。
私は軽く頷き、彼らの後をおった。
彼らはさっき「ジュースを買う。」と言っていたから、おそらく自動販売機に向かったはずだ。
すこし早歩きをして、自動販売機のある購買へ向かった。

1階の渡り廊下を通り抜け、購買の戸をおもいきり開けた。
思った通り、彼らは自動販売機の前でわいわいと盛り上がっていた。
そして、すこし走ったからか、それとも彼がまた瞳に映ったからか、心臓がうるさくなり始めた。
鼓動が購買のにぎやかな声をかき消して、無音に変えた。
手が震える。
足が震える。
急に近づいていったら不審に思われないだろうか。
嫌われないだろうか。
急いできたんだから、髪は崩れているんじゃないか。変じゃないだろうか。
また胸ポケットから鏡を取りだして、前髪や顔を見直した。
いや、相手は私の事なんて知らないんだ。
気にしたって、見られるはずがない。
大勢いる1年のうちの1人に過ぎないんだ。
気にする必要はない。
ただジュースを買いにきた女子生徒として、彼らの後ろに並べばいいんだ。
大きく深い息を吐き出して、震える足を引きずるようにして歩き出した。
1歩1歩が重い。
なのに、心は軽い。
話しかけられる訳でも無いし、話しかけるつもりなんてもっと無い。
だけど、そこにあるのは、今まで遠くから見つめてきたはずの彼のことを知り合うきっかけになるかもしれないという、淡い期待だ。

「おい、おまえコーヒー飲めないだろ」
「飲んでみるんだよ、大人の男っぽくね?」
彼らは、言ったら悪いがくだらない会話をしていて、重たかった足が一気に軽くなった気がした。
彼は、私の2組前に並んでいる。
上靴は、見える。
でも、字はすりきれていて読めない。
そのまま眉間に皺を寄せて唸っていると、彼らは要件が済んだようで列から抜けていった。
(行っちゃう。せっかくあの人のことを知れるチャンスだったのに。)
字がすりきれているようじゃ、もっと近寄らないとよく見えない。
つまり、今のままじゃ、どうやったって見えるはずがないんだ。
そう簡単には上手くいかないか。
もう、ジュースだけ買って教室へ戻ろう。
緊張で冷たくなった指で、ホットココアのボタンを押した。
季節外れだし、ちょっと高いけど、少し自分を甘やかしたかった。
熱すぎるココアの缶をぎゅっと握りしめ、そのまま出口へ向かった。
わたしは想像以上に拍子抜けしていて、前を見て歩く気力はなかった。
「…っわ!あぶね、!」
俯いていて前に人が居ることに気づかなくて、軽くぶつかってしまった。
本当に、なにしているんだろう。
「…あ、ごめんなさ…、」
途端、息が止まった。
パッと顔を上げて見ると、そこにはいつも見つめていたはずのあの人がいた。
今度は、今までよりも1番近くで。
かっと頬が熱くなった気がした。
びっくりして持っていたはずのホットココアの缶が手から滑り降ちる。
さらに身体が熱くなった。
「今、まだ9月だよな?ホットココアとか暑くねーの。」
彼の足元へ転がったココア缶を拾い上げて、こちらを見つめる。
どうしよう。
話すつもりがなかったなんて言ったら確かに嘘になる。
でもいざとなったら、「…あ、」とか「その…」とか、情けない声しか出なかった。
話すのは得意だし嫌いじゃない。だけど、こんなに急だと、さすがに言葉が出てこない。
「ほら、どーぞ。」
おろおろとしていた私に、彼は少し微笑んで缶をこちらに差し出した。
「あ、」と言葉を漏らし、彼へ手を伸ばした。
指先に伝わるホットココアの熱は、さっきより冷めたはずなのに、さっきより熱い気がした。
彼と私の指先を挟むココア缶の数cmが、ひどく分厚く、そして強大な壁に感じた。
何も言わない私の手に、彼は缶をすぽっと収めて、「じゃーな、気をつけて。」と身をひるがえした。
「あ、あの…。」
声が出ない。
言葉が出ない。
彼に話しかけて何を言えばいい?
ずっと見てました。かっこいいです。素敵です。どれも違う。
舞台でいえば、私は城下の村娘で、彼は王子様だ。
私は彼に何も言えない。
知り合ってもないし、釣り合ってもないからだ。
グッと拳に力がこもった。
せっかく、知り合えるかもしれなかったのにチャンスを無駄にした。
たまたま会えたらいいなくらいだったのに、酷く悔しくて、唇を噛みしめ俯いた。

「……あ、」

目の前には数歩先を歩く彼の上靴が見えた。
さっきより、明確にくっきりと、見えた。
顔が熱くなった。
世界が鮮やかに色付くように、視界が晴れた。

「…『日比谷 千里』」

気づけば声に出していた。
彼はパッと振り向き、少し驚いたような表情を浮かべていた。
そして、ハッとした。
どうしよう。話すことなんて何も考えていない。
あの人が、見てる、私を。
遠くからうすっらとしか見えなかった彼が、はっきりと鮮明に目に映る。
「…先輩、あの、拾ってくれてありがとうございます。」
しどろもどろでおろおろしていた今の私の精一杯の言葉だった。
「はははっ。はいよー。」
彼はくしゃりと笑って、またくるりと後ろを向いて友達の方へ向かった。
彼の笑顔はあの時と変わらない、ふわっと優しい目。
ショウでもレンでもない、千里先輩の背中を見つめていた。
きっとこの出来事は 『いつもと違う』指先に着いた赤い絵の具の魔法だろう。
『恋は稲妻が走るようだ』とよく言うけど、私の場合は、必然的で穏やかで、それでいて留められない水の流れのようだった。
ああ、もう、『かっこいいな。』では済まされないな。
かっこいいし、優しいし、かわいいし、あたたかい。
そんな彼を、『かっこいい。』という気持ちだけで済ましたくない。
ココアをぐいっと飲んだ。
喉にもう冷めてしまった甘い液が通るのは、火照った身体にはちょうどよく、気持ちよかった。
ココアの甘さが、私に優しくとろける。
それはまるで、彼の笑顔のようだ。
ずっと、私の中で、暖かく甘く渦巻いている。
季節外れのホットココアが、私と彼を繋いでくれた。
目を瞑ると、チョコよりも甘い笑顔が、張り付いている。
今日のことは、絶対に忘れないだろう。季節外れのホットココアが結んだ、奇跡のことを。
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