ベンチャーCEOの想い溢れる初恋婚 溺れるほどの一途なキスを君に
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翠は、蒼也がベッドを共にしないのは、手を出さずにいた方が別れやすいと思っているからなのではないかと疑い始めていた。
それはそれで理屈が通る。
肉体的関係を持ってしまえば、籍は入れてなくても別れる際に、法的に財産分与が必要になる場合もあるだろう。
もちろん翠にはそんなつもりはなかったが、莫大な資産を持つ一族としては、下手な隙は作りたくはないのだろう。
もしかしたら、顧問弁護士から釘を刺されているのかもしれない。
二人の同居生活だけなら、大きな子どもの『おままごと』に過ぎない。
毎日首筋に吐息がかかって心臓が跳ね上がるような距離にいるのに、決してそれ以上触れ合うことはなかった。
一方で、蒼也の祖父幸之助の容態は日に日に悪化していた。
癌の進行で食道が狭くなって固形物がだんだん食べられなくなっていき、栄養剤などを飲んでもむせるようになっていた。
六月下旬になって蒼也と二人でお見舞いに行ったときのことだった。
「おう、翠さん、よく来てくれたね」
「具合はどうですか」
「まあ、まだ死んではおらんようだな」と、冗談めかして笑みを浮かべるが、声はかすれて痰が絡んでいる。「いや、いいんじゃよ。事前に分かったから、世話になった連中にちゃんと別れの挨拶も言えたし、なかなかいい終わり方だと思っておるよ。こうして皆に見送ってもらえると、若い頃、船で欧州へ向かった時の旅立ちを思い出すよ」
「旅立つ前に、まだまだいろいろできることはあるよ」
蒼也は励ますが、幸之助は穏やかな表情で首を振るばかりだった。
「翠さん、そこの引き出しを開けてくれるかな」
言われたとおり、ベッド脇の収納棚を開けると、封筒が入っていた。
「二人の結婚祝いに、私からの贈り物だ。翠さん、受け取ってくださいな」
「ありがとうございます」と、翠は素直に受け取った。
偽装結婚であることを悟られないように、役者としてきちんと演技をやり抜かなければならない。
「中を見てくだされ」
封筒の中には、航空券の購入書類が入っていた。
ヨーロッパ行きのファーストクラスだ。
「こ、これは……」
目を丸くしている翠の表情を愉快だと言わんばかりに笑い声を上げた幸之助がむせてしまう。
蒼也が背中をさすってなんとかおさめる。
「新婚旅行のチケットだよ。楽しんできてください」
「でも、おじいさま」
「ああ、なに、いいんじゃよ」と、幸之助は軽く手を振った。「私のことは心配せずに行ってきなさい。むしろ私のために行ってもらいたいのだ」
「おじいさまのために?」
「私も若い頃に欧州に留学をした。当時は戦後とはいえまだまだ日本は貧しくてなあ。敗戦国の人間として肩身の狭い思いをしたものだったが、スイスの大学で知り合った女性に励まされてね。それがアンナだった」
蒼也さんのおばあさまだ。
翠は小さい頃に一度だけ会ったことがある。
だが、もう十年以上前に心臓の病気でなくなっていた。