ベンチャーCEOの想い溢れる初恋婚 溺れるほどの一途なキスを君に

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 旅行の支度でスーツケースは預けたままだったので、翠は蒼也のマンションに服などの荷物を残したまま実家に戻った。

 夏期休暇で在宅していた父はさすがに驚いていたけど、事情を聞いてそれ以上は何も言わずにいてくれた。

 テレビやネットのニュースで幸之助の追悼記事が流れていたが、翠はそれをまったく別世界の出来事のように聞き流していた。

 たとえ家族ではなくても、お世話になった人だから葬儀に参列する理由はあったし、本当は目を背けてはいけないことは分かっているのに、心が受けつけなかったのだ。

 蒼也からは何度も着信やメッセージがあったがすべて無視していた。

 翠は残りのお盆休み期間を、実家に残してあったくたくたなTシャツを着回しながら家に引きこもって過ごした。

 話し相手はたまにキッチンで顔を合わせる父だけだった。

「お父さん、夕飯何がいい?」

 父と二人で夕飯を食べるのは久しぶりだった。

「うーん」と、少し考えてから父はつぶやいた。「コロッケかな」

「言うと思った」

 コロッケは、亡き妻が初めて作ってくれた思い出の料理らしい。

 翠はどんな味だったか覚えていないが、中学生になった頃から試行錯誤した結果、(父曰く)母と同じ味を再現することができるようになっていた。

 隠し味はマヨネーズと粒マスタードだった。

 ジュワーッと色よく揚がったコロッケを網においた横から父が手を伸ばす。

「もう、お行儀悪いんだから」

「揚げたてが一番うまいだろ」

「素手でつかむなんて、いくらなんでも熱いでしょうよ」

「母さんにもよく怒られたよ」

 実験の時には手袋をするんだから、ちゃんとキッチンペーパーか何かを使って持ちなさいと叱られていたんだそうだ。

 ――うーん、そういう問題じゃないと思うんだけどな、お母さん。

 しつけ方を間違えたんじゃないの?

 サクサクといい音を立てながらつまみ食いをする父がぽつりとつぶやいた。

「翠は蒼也くんをどう思っているんだ?」

 揚げ物をしているときにそんな話をしないでほしい。

 半分かじったコロッケに父は冷蔵庫からソースを出して垂らした。

「たしかに本当に結婚したわけではないかもしれないけど、ちゃんと式まで挙げて形式的に夫婦になったわけだろ。それなのに、役割が済んだからって、もう愛情なんてなくなってしまうものなのか」

「最初から好きでもなんでもなかっただけ。だから、こんな非常識な提案を受け入れて演じていたの」

 強い口調で返事をしたせいか、父は黙ってコロッケを食べていた。

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