ベンチャーCEOの想い溢れる初恋婚 溺れるほどの一途なキスを君に
 と、その時だった。

 痙攣するように幸之助の口が動き、空気が漏れるような声がかすかに聞こえた。

「みどりさん……だいじに」

「おう、じいさん。翠を大事にしろって?」

 問いかけても、もう反応はなかった。

「聞こえたよ、じいさん。俺の声、聞こえるかい?」

 涙声もはばからず、蒼也は必死に呼びつつけた。

「大事にするよ。当たり前だろ。俺の最愛の人だぞ。じいちゃんがばあちゃんを愛していたように、俺だって翠を愛してるに決まってるだろ」

 そんな悲しい愛の告白にも、翠はただ黙って手を握っていることしかできなかった。

 蒼也の叫びが届いたかどうかは分からない。

 幸之助の顔はすでに蝋人形のようにこわばっていた。

「おい、じいさん!」

 スマホが幸之助から離され、画面の向こうで医者が頭を下げていた。

 悠輝がステアリングに拳をたたきつけた。

「ごめん、蒼也、間に合わなくて」

「いや、いいんだ。ありがとう。このまま気をつけて行ってくれ」

 シートに体を投げ出して天井を見上げる蒼也は目を閉じて涙をこらえていた。

「なんでだよ。どうしてなんだよ」

 唇を震わせる悲痛な呟きに、翠は何も言えず、ただ手を握りしめるしかなかった。

 病院で対面した幸之助は安らかな顔をしていた。

 蒼也の父から一枚の紙切れを渡された。

「昨日の式の後に看護師さんに紙をもらって書いたんだそうです」

《ミドリさんキれいなはなよめよカタネ》

 震える手で一文字一文字書いてくださったのだろう。

 ミミズが這い回ったような文字が涙でにじんで読めなくなる。

 ――おじいさま。

 結婚は偽装だったのに、喜んでくださってありがとうございました。

 だましていた申し訳なさで胸が張り裂けそうなほど苦しい。

 これで自分の役割は終わりなのも悲しい。

 本気になってはいけなかったのに、期待してはいけなかったのに、だけどずっと待っていたこれまでの気持ちを全部幻だとは思いたくはなかった。

 でも、それを口にしてはいけないんだ。

 迷惑かけちゃだめ。

 きれいに終わりにしなくちゃ。

 ただの、偽装結婚だったんだから。

 蒼也の家族は葬儀の手配やら政財界各方面への連絡であわただしく動き回っていた。

 そっと病室を抜け出そうとすると、蒼也に腕をつかまれた。

「翠、どこ行くんだ。こんな時くらい、そばにいてくれよ」

 だが、翠は首を振ってその手を振りほどいた。

「私がいても邪魔になりますから」

「何を言ってるんだ。翠は俺の……」

 と、言いかけたその時だった。

 勝手に病院に入り込んだマスコミ陣が病室のドアを激しくたたき始めた。

「御更木さん、コメントを!」

 騒ぎを収めようと蒼也は廊下に出た。

 その背中に隠れながら翠も病室を後にした。

「みなさん、お静かに。すみませんが、ここでは対応できませんので、外へお願いします」

 手を広げ、気丈に振る舞う蒼也だが、声は震え、目には涙が滲んでいる。

 そんな彼の表情を捉えようとカメラマンが容赦なくフラッシュを浴びせる。

 白く浮かび上がる憔悴した横顔に胸が締め付けられ、思わず手が伸びる。

 ――蒼也さん。

 支えてあげなくちゃ。

 演技でもいい。

 そばにいてあげなくちゃ。

 だって、私は蒼也さんの……。

 だが、寄り添おうとした瞬間、翠はマスコミ陣に弾き出され、廊下の壁に押しのけられてしまった。

 大勢の記者を引き連れてエレベーターに乗り込んだ蒼也は、腕をさすりながら壁際にたたずむ翠に気づいて口を開きかけたが、閉まるドアの向こうに消えてしまった。

 静まりかえった廊下に一人取り残された翠は、無力感に押しつぶされ、こみ上げる涙を子どものように手の甲でぬぐっていた。

 ――やっぱり、私がここにいる意味なんてないよね。

 だって、家族でもなんでもないんだから。

 そう思った瞬間、翠の心の中で、虹色に揺らめいていたシャボン玉が音もなく割れて消えた。

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