社長の推しは、地味メガネのわたしでした。
 ここ一ヶ月で社長との関係がどうなったかというと、簡単に言えば、推し活友達のような関係が続いていた。たまに、メールで送られてくる『花音』に関する心配事の相談を受けたり、次に参加すべき『鏡レンナ』のイベントをどれにするか決めたりと、推し活は順調に進んでいるようにみえる。もちろん、明日行われる握手会へも誘われた。ただ、これ以上身バレする危険性を考えると承諾も出来ず、断ることにした。

『そうか……。清瀬さんは、行かないのか』と寂しそうに笑った社長の顔が脳裏をよぎる。

 あの日、彼の言葉に背中を押され、前を向く決意をした。内面を隠す鎧だった黒縁メガネを外し、髪を巻き、お化粧をし、ワンピースを着て街に出た。前を向き、一歩を踏み出したとき、劣等感の塊だった心が少し解放された。自分が少し変われたような気がしたのだ。

 徐々に自分の中で大きくなる社長の存在。始めは、彼の言動に振り回され、変な男に絡まれた程度の認識だったはずなのに、彼と関われば関わるほど、自分の中の価値観や常識がくつがえり、劣等感で凝り固まった心が解放されていく。それを心地よく感じている自分が確かにいるのだ。

 自分の境遇に絶望し、進むことを諦めた私の背中を押してくれた人。

 彼の存在が特別になればなるほど、感じる不安感。彼もまた、妹に奪われてしまうという不安は日に日に大きくなっていく。だからこそ、『鏡レンナ』を知ろうと努力する彼の行動を純粋に応援できない。

 ただの嫉妬だ。何でも奪っていく妹に対する嫉妬。

 ふふ、何言っているんだろう。全て、自分が悪いというのに……

 結局、妹に責任転嫁しているだけなのだ。全てを妹のせいにして逃げ続けたのは自分。妹がいるから恋人が作れない、アイドルをしている妹がいるから身バレする訳にはいかない、どうせ私は妹の影武者。

 妹が全てを奪っていく。そんな事あるわけないのにね。

 今の境遇を作ったのは自分自身だ。一歩を踏み出す勇気がなかった自分が招いた結果。それを妹のせいにすることでしか、劣等感でいっぱいだった心を慰める方法を知らなかった。彼に出会うまでは……

 一歩を踏み出す勇気を教えてくれた人。

 変わりたいと願い、前を向く決意をした。それなのに、また下を向くというのか。

 時計の針は終業時間をとうに過ぎていた。デスク周りを片付け立ち上がると、総務部を出る。エントランスホールを横目に夕暮れ時の街へと足を踏み出せば、冷たい風が頬を撫でていった。
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