最悪な結婚のはずが、冷酷な旦那さまの愛妻欲が限界突破したようです
プロローグ
 お気に入りのトレンチコートの裾を翻し、パンプスのつま先を蹴る。

 四月に入り日増しに日中の気温は高くなっていくが、それでも朝晩はこうしてまだ肌寒い。会社からの帰り道、駅からは足早に家を目指す。誰かが待っているわけではないけれど、急ぐのには理由があった。

「お疲れ」

 声をかけられ驚いて横を見ると黒い高級車がそばで止まっていた。開いている運転席の窓から鋭い眼光が飛ばされ、身構える私を、相手は軽く一瞥する。

「送っていこう。どうせそちらに向かっていたんだ」

 こちらの言い分などまるで聞く気もない。抑揚のない言い方には有無を言わせない圧があった。

 断ろうかと一瞬思ったが、すぐに思い直す。私も彼に用事があったのだ。

 夜に溶ける漆黒の髪と冷たい瞳。他者を寄せつけないオーラは出会ったときから変わらない。皺ひとつない高級そうなスーツを身にまとい、怖いくらい整った顔は感情が読めず、まるで作りものだ。

「……お言葉に甘えます」

 悩んだ末に私は素早く助手席側に回り込む。駐停車が禁止ではないとはいえ、道路脇に車を停車させたままなのは心苦しい。

 私が気にする立場ではないんだけれど。

 つい急いて乗り込んでしまったが、こんな時間に男性の運転する車に乗るなど初めてで、意識すると急に心臓が早鐘を打ち出した。

 ハザードランプから右ウィンカーに切り替わり、車はゆっくりと動き出す。病院から近いとはいえ、ここらへんは裏道になるので、通る車はそこまで多くない。

 ちらりと彼の方を窺うと、ハンドルに置かれた手は骨張っていて大きく、前を見ている横顔は暗くてもはっきりわかるほど端整だ。

 ややあって彼の唇が動く。

「この前の返事、聞かせてくれないか?」

 緊張している私に対し、彼は平然と聞いてきた。必死に悩んでいた自分が馬鹿らしく思えるほどに。

「……約束、守ってくれるんですよね?」

 おずおずと尋ねると彼は前を向いたまま頷いた。

「ああ。きっちり契約書も用意する」

 その言葉に偽りはないだろう。そもそもこの話は彼にとってあまりメリットがない気がする。けれど、そんなことを気にしている場合じゃない。私にとってはチャンスなんだ。

「わかりました。……結婚します」

 私も前を向いて答える。彼に、というより自分に言い聞かせるようだった。そのタイミングで車が止まり、なにげなく隣に視線を遣ると、彼もこちらを見ていた。

 目が合い息を呑んだあと、私はさっきよりも大きい声ではっきりと告げる。

「私、あなたと結婚します」
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