Sapphire Lagoon[サファイア・ラグーン1作目]
[礁] -2- (※)
◇こちらに挿絵入りの相関図を表示致します。(小さくて見づらい場合は、相関図を右クリックし「画像の拡大」を選択しますと大きく表示されます)

「サファイア・ラグーン──此の地は以前から此処に在った訳ではない。百五十年前──ウイスタがシレーネを退くと決意したあの時、我はあれと決別し、このラグーンを此処へと移したのじゃ……あの結界からな」
ルーラと僕は驚いて顔を見合わせた。
「サファイア・ラグーンは、結界の中に在ったということですか?」
「いや……正確にはあの結界全てがラグーンそのものじゃった。神話の時代、我等は半人半鳥の姿で地中海の岩礁に巣食っておったが、身を投げ人魚となってその住処を海の中とした。海神ネプチューンに従い、地中海の安定を見守るべく、あちこちに住んでおったものじゃよ……それを知る者ももはや我一人となったが」
そうしてアーラ様は遠くを見つめた。自由に泳ぎ回っていた懐かしい時間を取り戻すかのように。
「しかし時代は変わった。人間と共存していた過去は忘れ去られ、人間は文化の発展と共に神の存在を心の中から消してしまった。行動範囲を広げた人間に我等の生活圏は侵され、行き場を失くした人魚等はサファイア・ラグーンを唯一の住処と選択したのじゃ」
「そんな……!」
僕の呟きよりも早くルーラの愕然とした叫びが吐き出されて、僕は彼女の顔を見ることをためらった。人間が……人魚を追いやっていたなんて──。
「まぁ待て。感情を逆立てるでない。それではアメルが可哀想じゃろう。人間に罪はない。これが自然の摂理というもの──弱き者は淘汰されていく。人間にとって人魚は決して必要な存在ではないのじゃ……人魚にとってはそうでなくてもな」
最後の言葉は小さく掠れてしまって聞き取りづらかったものの、僕にはそう聞こえた──人魚にとってはそうでなくてもな──どういう意味だろう?
しかしその言葉で冷静さを取り戻したルーラの謝罪に、僕の疑問は打ち消され、薄く笑んでかぶりを振った僕も小さな声で謝った。
「さて……そこでこのラグーンとは何なのか、という話をしなければならぬのじゃが、砂浜で『此処は本来生きた者の来られぬ場所』と話したことは覚えておるかの?」
「はい」
ルーラと声が重なった。
「サファイア・ラグーンとは、天国への入口。それも人魚だけでなく、海で死んだ者全てへと開放されたあの世への扉なのじゃ」
「えっ……?」
思わず僕は口から驚きの言葉を洩らした。もしも……父さんが海の嵐に巻き込まれたのなら、此処を通ったということになる。
ルーラの視線を感じた。アーラ様はニッと笑って僕を一瞥し、
「人魚の肉体は結晶と化し、以前ラグーンであったあの結界の海溝に堆積する。その他の生物は死んだ地で朽ちてゆくが、双方の魂はいずれも一度愛する者の元へ戻り七日間滞在する。期間を過ぎると次にこのラグーンを目指し、此処で再び七日間を経て、浄化の叶った魂だけが天国へと向かうのじゃ。無論……浄化のなされなかった魂は地獄へと落ちる」
「大ばば様もここへ来たということですか?」
ルーラの質問に僕はハッと顔を向けた。
「その通り……我は百五十年振りに妹の魂と再会した。そう……お主等が此処を目指すことはウイスタから聞いたのじゃ。あれは随分心配しておったよ、お主等二人のことを。じゃが、我の言葉を聞いて安心して旅立っていった──我等はやっと和解を遂げたのじゃ──死して……やっと」
「和解って……どうして大ばば様と喧嘩しなくちゃいけなかったのですか?」
「うむ……幾ら住む場所を追われたとは云え、神の領域であるサファイア・ラグーンに踏み込むことはやってはならぬことじゃった。我は断固反対し阻止したが、ウイスタの決意は固かった……あれはネプチューンとの契約を破り、シレーネとしての資格を放棄してラグーンを得たのじゃ。そこで我はラグーンの機能を此処へ移した。それがネプチューンの御意志でもあったからの」
話はとてつもない規模にまで発展していた。神をも動かす決意──大ばば様は一体どうしてそこまでしなくてはならなかったのだろう?
「それって……では、あたしがシレーネになるってことは……」
ルーラの声が震えていた。見れば全身が震えている。偉大なる神──その気高き力を既に感じてしまったかのように。
「そうじゃ……シレーネの資格を再び得るということは、神との契約を再度交わし、昔のように地中海の秩序を保つ務めを果たすということ。そして結界を神にお返しするということじゃ」
「そんなこと……そんな、いきなりっ」
「勿論シレーネ継承と共に、と言われた訳ではない。まずはウイスタによって封印された過去の事実を皆に伝え、生きる糧となる魔法を覚え、保護された結界の外を知り、結界の返却はその時に到った後で良いとおっしゃられているのじゃ」
ルーラは相当動転しているように見えた。シレーネを継ぐ──まさかそれがそんな大それたことであったとは、誰が予測したことだろう。
けれど数回の深呼吸の後、彼女は落ち着きを取り戻した。冷静さと緊張の面持ちは何処か大人びて見え、僕にはもっと遠い存在へと化していた。
「教えてください。あたし達がどうして結界を手離す道を選ばなくてはいけないのかを」
「……」
アーラ様はしばらく何も発しなかった。真剣な表情のルーラと戸惑う僕の姿を交互に眺めて、深く溜息のような息を吐き、数秒呼吸を整えこう言った。
「これから先は辛い話になるぞ……覚悟は出来ているのか?」
「はい」
間髪容れないルーラの返事であった。
しかして──。
「……我等の祖はかつて一羽の鳥じゃった。その鳥は人間に恋をした」
「こい……?」
『まただ。』そんな顔したルーラがこちらを向いた。
「鳥は人間と交わり子をなした。それが我等全ての先祖の始まり。しかし異種が交われば、また異なる者が生まれる。やがて半人半鳥の種族として確立した我等の集団は、稀有な存在として全ての生物から距離を保たれたが、その羽ばたきで世界を見聞し、賢き人間の脳で知識を広め、いつしか一目置かれる存在になった。その功績によってネプチューンより庇護を受けた我等は、地中海を統治する権利を賜り繁栄したのじゃ」
ルーラは声もなく頷いた。
「しかし……シレーネ達は自惚れてしまったのじゃよ。その知識を欲しがり群がる人間に対して驕り高ぶり、自らよりも下等と見なしてしまった……我等の、その半分は人間であることも忘れてな……」
──半分は人間。
一羽の鳥と一人の人間から生まれたシレーネ──その末裔の人魚。独自に生まれた人魚、そして人間との間に生まれた人魚──ルーラ。
彼女は半分以上人間ということなのか?
「アメルも知っての通り、シレーネ達は人間の賢さに己の浅はかさを恥じ、海に身を投げてしまった……じゃが、ネプチューンの憐みを受け、人魚として再生し、海中から地中海を見守ってきた訳じゃ……百五十年前まではな」
その時何が起きたのか、だ。
ルーラと僕が聴きたかったのは、そこだった。テーブルにしがみつき、前のめりになりそうなほどアーラ様の口元を覗き込む。自分の鼓動さえもがうるさく感じるくらい耳を澄ました。けれどアーラ様はそれには触れず先を話し出した──大ばば様が決断を下した原因は人間の海への支配──本当にそれだけだと言うのか?
「さて……結界を手離さざるを得ない、という話は此処からじゃ。ウイスタによって結界の中で暮らした人魚は平和を得た。そなたもこの十六年、何の問題もなかったじゃろう? しかし『事』は裏で起きておったのじゃよ……誰にも気付かれぬようにな」
「事……?」
「半人半鳥だったシレーネも、その流れを汲む半人半魚の我等も、元々半分は人。どちらの時代も時々人間と交わることによって、その血の均衡を保ってきたのじゃ。独自に産めるのは良くて三代……交わらなければ、我等は魚に戻る」
──!!
「……あ……う、嘘……」
「ルーラ──」
椅子を倒す勢いで彼女は立ち上がり、やっとのことで吐き出した言葉を置き去りに泳ぎ去ってしまった。
「ル、ルーラ!」
「やれやれ、やはりちと荷が重過ぎたかの……これでは肝心な話も出来まい。心配は無用じゃ、アメル。我が迎えに行こう。そなたは声を掛けるまで、その扉の向こうで休んでおれ。なに、腹が減ったらまた元のルーラじゃよ。それと、そなたにはまだ話すことも有るしな……」
そう言ってルーラを追うため静かに浮かび上がり、彼女が飛び出していった方向へと驚くほどの速さで消えてしまった。
──ルーラ……。
ぽつんと一人残された僕は、改めて回りの様子を窺った。
広場のようなドーム状の空間には、今まで僕達が腰かけていた椅子とテーブル以外何も無い。この広場の外にも一切の魚・一切の海草すら存在していなかった。ぼおっと光を放つ“此処”を取り巻く物は深海にも似た闇。いや、薄っすらと僕達が来た道が見えなくもない。あれを辿れば再び珊瑚礁の森を抜け、あの砂浜へと到るのだろう。けれどアーラ様の告げた『扉』とは……?
「えっ、あっ、えぇ……?」
ふと振り向いた僕の背後に青い扉が立ちはだかっていた。そんな言い方になってしまうのは、本当に扉だけが自立しているからだ。壁もなく、扉の向こうにも何も無い。
「扉の中って言っても……」
そんな風に独りぼやいてみたが、何となしにノブに手を掛けると手前に開き、目の前には簡素ながらも綺麗にしつらえた部屋が実在していた。
「あ……この部屋……」
呆然としながらも一歩踏み込んでみる。窓は閉じ、外には風景すらないのに、不思議と新緑の香りの風を感じた。木と石を使った壁と床。小さな部屋の大半を占めてしまう手造りのベッドと小じんまりとした机──この部屋は──。
約六年前、母さんが涙を枯らすまで泣いて手放したあの家の僕の部屋。
中ほどまで進む途中、右手に頑丈そうな低いチェストを見つけ引出しを開いてみた。
「こんな物まで……」
小綺麗に畳まれた僕の小さな服。学校の教科書まである。
幾つかを手にしたまま清潔そうなシーツの巻かれたベッドに腰かけたが、ギシッと軋む音までが懐かしかった。
──父さんお手製のベッド。
背が伸びたらまた大きいのを作ればいいと小さ目にしつらえたのは、この部屋の狭さを考慮してのことだった。横になってみると足先が飛び出る。天井の木目の柄も良く覚えている。
この部屋が此処に再現されたのは、僕の記憶が反映されたのだろうか? それともアーラ様はやはり父さんと会い、その記憶を手にしたのか。
まだまだ分からないこと、訊かなきゃいけないことが沢山あった。父さんのこと・ルーラの姉さんのこと・金髪と銀髪の人魚・大ばば様の決断の理由──。
「ルーラ……どうしたかな……」
僕はショックを受けて現実を受け止められず混乱する彼女の表情を思い出した。
僕には力になれることが一つとして無い。──本当に無いのだろうか?
「ルーラ……」
昨晩眠れなかったことも手伝って、僕は突然襲いかかってきた睡魔に身を任せてしまった。夢には父さんとこの部屋で語り合った沢山の想い出、そしてアーラ様によって脳裏に映し出された二人の会話。明と暗の象徴たる二つの現実は、僕の心の中で複雑に絡み合い、『彼女』にこの身を起こされるまで重い瞼を開くことは出来なかった──。

「サファイア・ラグーン──此の地は以前から此処に在った訳ではない。百五十年前──ウイスタがシレーネを退くと決意したあの時、我はあれと決別し、このラグーンを此処へと移したのじゃ……あの結界からな」
ルーラと僕は驚いて顔を見合わせた。
「サファイア・ラグーンは、結界の中に在ったということですか?」
「いや……正確にはあの結界全てがラグーンそのものじゃった。神話の時代、我等は半人半鳥の姿で地中海の岩礁に巣食っておったが、身を投げ人魚となってその住処を海の中とした。海神ネプチューンに従い、地中海の安定を見守るべく、あちこちに住んでおったものじゃよ……それを知る者ももはや我一人となったが」
そうしてアーラ様は遠くを見つめた。自由に泳ぎ回っていた懐かしい時間を取り戻すかのように。
「しかし時代は変わった。人間と共存していた過去は忘れ去られ、人間は文化の発展と共に神の存在を心の中から消してしまった。行動範囲を広げた人間に我等の生活圏は侵され、行き場を失くした人魚等はサファイア・ラグーンを唯一の住処と選択したのじゃ」
「そんな……!」
僕の呟きよりも早くルーラの愕然とした叫びが吐き出されて、僕は彼女の顔を見ることをためらった。人間が……人魚を追いやっていたなんて──。
「まぁ待て。感情を逆立てるでない。それではアメルが可哀想じゃろう。人間に罪はない。これが自然の摂理というもの──弱き者は淘汰されていく。人間にとって人魚は決して必要な存在ではないのじゃ……人魚にとってはそうでなくてもな」
最後の言葉は小さく掠れてしまって聞き取りづらかったものの、僕にはそう聞こえた──人魚にとってはそうでなくてもな──どういう意味だろう?
しかしその言葉で冷静さを取り戻したルーラの謝罪に、僕の疑問は打ち消され、薄く笑んでかぶりを振った僕も小さな声で謝った。
「さて……そこでこのラグーンとは何なのか、という話をしなければならぬのじゃが、砂浜で『此処は本来生きた者の来られぬ場所』と話したことは覚えておるかの?」
「はい」
ルーラと声が重なった。
「サファイア・ラグーンとは、天国への入口。それも人魚だけでなく、海で死んだ者全てへと開放されたあの世への扉なのじゃ」
「えっ……?」
思わず僕は口から驚きの言葉を洩らした。もしも……父さんが海の嵐に巻き込まれたのなら、此処を通ったということになる。
ルーラの視線を感じた。アーラ様はニッと笑って僕を一瞥し、
「人魚の肉体は結晶と化し、以前ラグーンであったあの結界の海溝に堆積する。その他の生物は死んだ地で朽ちてゆくが、双方の魂はいずれも一度愛する者の元へ戻り七日間滞在する。期間を過ぎると次にこのラグーンを目指し、此処で再び七日間を経て、浄化の叶った魂だけが天国へと向かうのじゃ。無論……浄化のなされなかった魂は地獄へと落ちる」
「大ばば様もここへ来たということですか?」
ルーラの質問に僕はハッと顔を向けた。
「その通り……我は百五十年振りに妹の魂と再会した。そう……お主等が此処を目指すことはウイスタから聞いたのじゃ。あれは随分心配しておったよ、お主等二人のことを。じゃが、我の言葉を聞いて安心して旅立っていった──我等はやっと和解を遂げたのじゃ──死して……やっと」
「和解って……どうして大ばば様と喧嘩しなくちゃいけなかったのですか?」
「うむ……幾ら住む場所を追われたとは云え、神の領域であるサファイア・ラグーンに踏み込むことはやってはならぬことじゃった。我は断固反対し阻止したが、ウイスタの決意は固かった……あれはネプチューンとの契約を破り、シレーネとしての資格を放棄してラグーンを得たのじゃ。そこで我はラグーンの機能を此処へ移した。それがネプチューンの御意志でもあったからの」
話はとてつもない規模にまで発展していた。神をも動かす決意──大ばば様は一体どうしてそこまでしなくてはならなかったのだろう?
「それって……では、あたしがシレーネになるってことは……」
ルーラの声が震えていた。見れば全身が震えている。偉大なる神──その気高き力を既に感じてしまったかのように。
「そうじゃ……シレーネの資格を再び得るということは、神との契約を再度交わし、昔のように地中海の秩序を保つ務めを果たすということ。そして結界を神にお返しするということじゃ」
「そんなこと……そんな、いきなりっ」
「勿論シレーネ継承と共に、と言われた訳ではない。まずはウイスタによって封印された過去の事実を皆に伝え、生きる糧となる魔法を覚え、保護された結界の外を知り、結界の返却はその時に到った後で良いとおっしゃられているのじゃ」
ルーラは相当動転しているように見えた。シレーネを継ぐ──まさかそれがそんな大それたことであったとは、誰が予測したことだろう。
けれど数回の深呼吸の後、彼女は落ち着きを取り戻した。冷静さと緊張の面持ちは何処か大人びて見え、僕にはもっと遠い存在へと化していた。
「教えてください。あたし達がどうして結界を手離す道を選ばなくてはいけないのかを」
「……」
アーラ様はしばらく何も発しなかった。真剣な表情のルーラと戸惑う僕の姿を交互に眺めて、深く溜息のような息を吐き、数秒呼吸を整えこう言った。
「これから先は辛い話になるぞ……覚悟は出来ているのか?」
「はい」
間髪容れないルーラの返事であった。
しかして──。
「……我等の祖はかつて一羽の鳥じゃった。その鳥は人間に恋をした」
「こい……?」
『まただ。』そんな顔したルーラがこちらを向いた。
「鳥は人間と交わり子をなした。それが我等全ての先祖の始まり。しかし異種が交われば、また異なる者が生まれる。やがて半人半鳥の種族として確立した我等の集団は、稀有な存在として全ての生物から距離を保たれたが、その羽ばたきで世界を見聞し、賢き人間の脳で知識を広め、いつしか一目置かれる存在になった。その功績によってネプチューンより庇護を受けた我等は、地中海を統治する権利を賜り繁栄したのじゃ」
ルーラは声もなく頷いた。
「しかし……シレーネ達は自惚れてしまったのじゃよ。その知識を欲しがり群がる人間に対して驕り高ぶり、自らよりも下等と見なしてしまった……我等の、その半分は人間であることも忘れてな……」
──半分は人間。
一羽の鳥と一人の人間から生まれたシレーネ──その末裔の人魚。独自に生まれた人魚、そして人間との間に生まれた人魚──ルーラ。
彼女は半分以上人間ということなのか?
「アメルも知っての通り、シレーネ達は人間の賢さに己の浅はかさを恥じ、海に身を投げてしまった……じゃが、ネプチューンの憐みを受け、人魚として再生し、海中から地中海を見守ってきた訳じゃ……百五十年前まではな」
その時何が起きたのか、だ。
ルーラと僕が聴きたかったのは、そこだった。テーブルにしがみつき、前のめりになりそうなほどアーラ様の口元を覗き込む。自分の鼓動さえもがうるさく感じるくらい耳を澄ました。けれどアーラ様はそれには触れず先を話し出した──大ばば様が決断を下した原因は人間の海への支配──本当にそれだけだと言うのか?
「さて……結界を手離さざるを得ない、という話は此処からじゃ。ウイスタによって結界の中で暮らした人魚は平和を得た。そなたもこの十六年、何の問題もなかったじゃろう? しかし『事』は裏で起きておったのじゃよ……誰にも気付かれぬようにな」
「事……?」
「半人半鳥だったシレーネも、その流れを汲む半人半魚の我等も、元々半分は人。どちらの時代も時々人間と交わることによって、その血の均衡を保ってきたのじゃ。独自に産めるのは良くて三代……交わらなければ、我等は魚に戻る」
──!!
「……あ……う、嘘……」
「ルーラ──」
椅子を倒す勢いで彼女は立ち上がり、やっとのことで吐き出した言葉を置き去りに泳ぎ去ってしまった。
「ル、ルーラ!」
「やれやれ、やはりちと荷が重過ぎたかの……これでは肝心な話も出来まい。心配は無用じゃ、アメル。我が迎えに行こう。そなたは声を掛けるまで、その扉の向こうで休んでおれ。なに、腹が減ったらまた元のルーラじゃよ。それと、そなたにはまだ話すことも有るしな……」
そう言ってルーラを追うため静かに浮かび上がり、彼女が飛び出していった方向へと驚くほどの速さで消えてしまった。
──ルーラ……。
ぽつんと一人残された僕は、改めて回りの様子を窺った。
広場のようなドーム状の空間には、今まで僕達が腰かけていた椅子とテーブル以外何も無い。この広場の外にも一切の魚・一切の海草すら存在していなかった。ぼおっと光を放つ“此処”を取り巻く物は深海にも似た闇。いや、薄っすらと僕達が来た道が見えなくもない。あれを辿れば再び珊瑚礁の森を抜け、あの砂浜へと到るのだろう。けれどアーラ様の告げた『扉』とは……?
「えっ、あっ、えぇ……?」
ふと振り向いた僕の背後に青い扉が立ちはだかっていた。そんな言い方になってしまうのは、本当に扉だけが自立しているからだ。壁もなく、扉の向こうにも何も無い。
「扉の中って言っても……」
そんな風に独りぼやいてみたが、何となしにノブに手を掛けると手前に開き、目の前には簡素ながらも綺麗にしつらえた部屋が実在していた。
「あ……この部屋……」
呆然としながらも一歩踏み込んでみる。窓は閉じ、外には風景すらないのに、不思議と新緑の香りの風を感じた。木と石を使った壁と床。小さな部屋の大半を占めてしまう手造りのベッドと小じんまりとした机──この部屋は──。
約六年前、母さんが涙を枯らすまで泣いて手放したあの家の僕の部屋。
中ほどまで進む途中、右手に頑丈そうな低いチェストを見つけ引出しを開いてみた。
「こんな物まで……」
小綺麗に畳まれた僕の小さな服。学校の教科書まである。
幾つかを手にしたまま清潔そうなシーツの巻かれたベッドに腰かけたが、ギシッと軋む音までが懐かしかった。
──父さんお手製のベッド。
背が伸びたらまた大きいのを作ればいいと小さ目にしつらえたのは、この部屋の狭さを考慮してのことだった。横になってみると足先が飛び出る。天井の木目の柄も良く覚えている。
この部屋が此処に再現されたのは、僕の記憶が反映されたのだろうか? それともアーラ様はやはり父さんと会い、その記憶を手にしたのか。
まだまだ分からないこと、訊かなきゃいけないことが沢山あった。父さんのこと・ルーラの姉さんのこと・金髪と銀髪の人魚・大ばば様の決断の理由──。
「ルーラ……どうしたかな……」
僕はショックを受けて現実を受け止められず混乱する彼女の表情を思い出した。
僕には力になれることが一つとして無い。──本当に無いのだろうか?
「ルーラ……」
昨晩眠れなかったことも手伝って、僕は突然襲いかかってきた睡魔に身を任せてしまった。夢には父さんとこの部屋で語り合った沢山の想い出、そしてアーラ様によって脳裏に映し出された二人の会話。明と暗の象徴たる二つの現実は、僕の心の中で複雑に絡み合い、『彼女』にこの身を起こされるまで重い瞼を開くことは出来なかった──。