ベルベットの夜 ― 夢を諦めた喫茶店スタッフ、ピアノバーの彼と出会い再び鍵盤の前へ

第十三話 「兄の存在」

 杏果は、時折、ベルベットコードでピアノを弾くようになっていた。

 決まったスケジュールがあるわけでもないし、ホームページでの告知もしていない。
 ただ、「この時間なら、たぶん彼女のピアノが聞けるかもしれない」と、常連の間でささやかれるようになってきていた。

 ベルベットコードのピアノは、あくまでも、BGMとしての演奏である。店の空気に溶け込むように始まり、やわらかな余韻を残して終わる。けれど、ピアノの前に座ることが、少しずつ日常の一部になっていくのは、心地よかった。

 仁美は多くを語らなかったが、ときどきグラスを拭きながら、
「今夜も、ちょうどいい音ね」と、ぽつりと呟くことがあった。

 飛弦は何も言わないまま、演奏中にふとグラスを置いて、鍵盤の音に耳を傾けていることがある。

 杏果のピアノは、ベルベットコードの夜に、少しずつ根を張っていった。
 
   ◇◇

 午後のキャリコには、昼過ぎの穏やかな光が差し込んでいた。
 常連客たちがそれぞれの静けさを楽しむように、新聞をめくったり、湯気の立つカップを手にしている。

 杏果はホールでグラスを拭いていた。ポットの湯を注ぎながら、いつものように静かな時間が流れていた。

 そのとき、店のドアベルがやわらかく鳴った。

 顔を上げると、見慣れたアッシュグレーの髪が目に入る。
 飛弦だった。けれどその隣には、杏果が見たことのない、端正なスーツ姿の男性が立っていた。
 男性は彼に似ていたが、より整った身なりと落ち着いた佇まいが印象的だった
 
「いらっしゃいませ」
 杏果が軽く頭を下げると、ふたりとも静かに会釈を返した。

 その瞬間、カウンターの奥にいたマスターが、ふと顔を上げた。
 そして目を細め、少し首を傾げるようにしてから、声をかけた。

「……おや。美延商事の桜井さん、だったかな?」

 スーツの男が小さく驚いたように笑みを返した。

「覚えてくださってたんですね。あの頃はまだ、ペーペーで営業回りしてました」
 
「そりゃ覚えてるさ」

「“奥野さんが喫茶店やってる”って聞いて。ちょうどいい機会だと思ってきました」

 兄はそう言って、ちらりと横の飛弦を見やる。
 飛弦は少しだけ視線をそらして、カウンターの隅に座った。

 基子が注文を取りに行き、杏果はカウンターの端で食器を拭いていた。

 最初は他愛ない会話だった。
 けれど、ふと耳に届いた兄の声に、杏果の手が止まる。

「……で、お前、まだあのバーで弾いてるのか?」

「うん。週に何回か、変わらず」

「それ、どのくらい稼げてるんだ? いや、別に金の話だけじゃないけどさ。
  同級生の田中は、もう課長代理だってさ。吉野も結婚したし。……お前はさ、どうなんだ?」

 飛弦はすぐには答えなかった。
 杏果は、カウンターの裏にある片付け棚に移動しながら、足を止めた。

「……そういうの、もう気にしてないよ。俺は俺で、やってるから」

「それはいいことだ。でも、親父はさ……やっぱり心配してるよ。
  お前、昔から突っ走るところあったし」

「心配されるのは、もう慣れてる。
  でも、“ちゃんとしてる兄貴”と比べられるのは、やっぱり、今でも嫌だよ」

 その声には怒りも焦りもなかった。ただ、淡々とした、諦めに似た静けさがあった。

 杏果は、そっと手に持っていたクロスをテーブルに置き、厨房に入るふりをして、その場をそっと離れた。

 杏果はその会話を最後まで聞いたわけではなかったが、胸の奥に、何かが残っていた。
 言葉にはできない、飛弦の“痛み”のようなもの。

 彼がピアノを手放さなかった理由が、少しだけわかった気がした。
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