ベルベットの夜 ― 夢を諦めた喫茶店スタッフ、ピアノバーの彼と出会い再び鍵盤の前へ
第九話 「新しい日常」
週に三度。
杏果はベルベットコードの扉を開くのが、習慣になりつつあった。
月曜の定休日。
水曜と土曜の遅番の前、時間に余裕のある午後。
それは杏果だけの、静かな音の時間だった。
最初は譜面と鍵盤を交互に見比べて、慎重に弾いていた。
けれど日を追うごとに、音は自然に流れるようになっていった。
《愛の夢》だけではない。モーツァルトのソナタや、ドビュッシーの小品も鞄に忍ばせていた。
ベルベットコードでは、仁美はいつも変わらず、カウンター越しに事務作業をしている。
たまにコーヒーを淹れてくれて、演奏の隙間に「その和音の響き、やっぱりいいわね」などとひと言だけ添えてくれる。
そのさりげなさが、杏果にとっては何よりの励ましだった。
ある日、杏果がピアノの前で指のストレッチをしていると、扉のチャイムが小さく鳴った。
振り返ると、飛弦がいた。
「譜面、渡しに来ただけ」
そう言って彼はドキュメントフォルダを仁美に手渡し、カウンターの端に腰かける。
杏果は何も言わずに、ピアノの前に戻った。
ショパンのノクターン第20番を弾き始めると、飛弦はカウンターに肘をつき、じっと音に耳を傾けていた。
ゆったりとした旋律が、店内の静けさに溶け込んでいく。
終わったあと、目が合った。
「……それ、映画で使われてたよね。なんか、すごく印象的だった」
杏果は少し驚いたように瞬きをした。
「それ『戦場のピアニスト』のことですよね」
「そうだよ。クラシックもいいよね」
それだけ言って、飛弦はすぐに出ていった。
でも、そのひと言は、杏果の胸の奥に、長く残った。
◇◇
昼過ぎの陽が、キャリコのカウンターにやわらかく差し込んでいた。
コーヒーの香りが立ちのぼり、その湯気の向こうで、マスターの奥野茂が新聞を畳む。
「なんだか、最近……いい顔してるな」
茂が、声をかけた。いつもの落ち着いた笑みを添えて。
「え? そうですか?」
杏果は、少し驚いたように目を瞬かせた。
カップを拭いていた手を止めて、思わず聞き返す。
横で聞いていた基子が、ポットを持ったまま、にこっと笑う。
「何か、いいことあったのかしら?」
からかうでも、詮索するでもなく――ただ、静かに問いかけるように。
その言葉に、杏果はふっと笑みをこぼした。
——たしかに、自分でも気づいている。
あの日、ベルベットコードで久しぶりにピアノに触れてから、何かが変わった。
指で音楽を奏でるたびに、自分を取り戻したような気がしてくる。
音楽が、日々のなかにあること。
そのことだけで、心が少しだけ軽くなった。
杏果はベルベットコードの扉を開くのが、習慣になりつつあった。
月曜の定休日。
水曜と土曜の遅番の前、時間に余裕のある午後。
それは杏果だけの、静かな音の時間だった。
最初は譜面と鍵盤を交互に見比べて、慎重に弾いていた。
けれど日を追うごとに、音は自然に流れるようになっていった。
《愛の夢》だけではない。モーツァルトのソナタや、ドビュッシーの小品も鞄に忍ばせていた。
ベルベットコードでは、仁美はいつも変わらず、カウンター越しに事務作業をしている。
たまにコーヒーを淹れてくれて、演奏の隙間に「その和音の響き、やっぱりいいわね」などとひと言だけ添えてくれる。
そのさりげなさが、杏果にとっては何よりの励ましだった。
ある日、杏果がピアノの前で指のストレッチをしていると、扉のチャイムが小さく鳴った。
振り返ると、飛弦がいた。
「譜面、渡しに来ただけ」
そう言って彼はドキュメントフォルダを仁美に手渡し、カウンターの端に腰かける。
杏果は何も言わずに、ピアノの前に戻った。
ショパンのノクターン第20番を弾き始めると、飛弦はカウンターに肘をつき、じっと音に耳を傾けていた。
ゆったりとした旋律が、店内の静けさに溶け込んでいく。
終わったあと、目が合った。
「……それ、映画で使われてたよね。なんか、すごく印象的だった」
杏果は少し驚いたように瞬きをした。
「それ『戦場のピアニスト』のことですよね」
「そうだよ。クラシックもいいよね」
それだけ言って、飛弦はすぐに出ていった。
でも、そのひと言は、杏果の胸の奥に、長く残った。
◇◇
昼過ぎの陽が、キャリコのカウンターにやわらかく差し込んでいた。
コーヒーの香りが立ちのぼり、その湯気の向こうで、マスターの奥野茂が新聞を畳む。
「なんだか、最近……いい顔してるな」
茂が、声をかけた。いつもの落ち着いた笑みを添えて。
「え? そうですか?」
杏果は、少し驚いたように目を瞬かせた。
カップを拭いていた手を止めて、思わず聞き返す。
横で聞いていた基子が、ポットを持ったまま、にこっと笑う。
「何か、いいことあったのかしら?」
からかうでも、詮索するでもなく――ただ、静かに問いかけるように。
その言葉に、杏果はふっと笑みをこぼした。
——たしかに、自分でも気づいている。
あの日、ベルベットコードで久しぶりにピアノに触れてから、何かが変わった。
指で音楽を奏でるたびに、自分を取り戻したような気がしてくる。
音楽が、日々のなかにあること。
そのことだけで、心が少しだけ軽くなった。