冷徹専務は、私の“嘘”に甘くなる
自然体になれる自分
朝の通勤電車。人と人の肩が触れ合うほどの混雑の中、私は吊革に掴まりながら、ふと窓の外に視線を落とした。
春の陽射しは柔らかく、ビルのガラスに反射して、キラキラときらめいている。
それなのに、私の心の中は、驚くほど静かだった。
ほんの数日前――大学のテニスコートで偶然見かけた、あの少女。
心春ちゃんと、そして彼女に「パパ」と呼ばれていた一ノ瀬専務の姿。
それを目の当たりにして以来、私の中の何かが、静かに変わり始めていた。
初めて知った事実に、最初は混乱した。胸がぎゅっと苦しくなった。
でも、それと同時に妙な納得感が、私の中にじわじわと広がっていった。
(……家庭があったんだ)
その一言がすべてだった。
彼の冷たさも、無表情も、突き放すような言葉も――
全部、何かを守るための手段だったのだと、私は勝手に“理解”していた。
そして、今。
その“理解している”という感覚が、私の心を、少しだけ強くしてくれていた。
会社のエントランスをくぐり抜け、受付のガラスドアが開いた瞬間、私はすっと背筋を伸ばした。
出勤時間のオフィスは、まだざわめきの少ない静かな空気に包まれていた。コピー機の立ち上がる音。コーヒーメーカーのポンプの音。キーボードを打つリズム。
そのすべてが、今日もいつも通りの“朝”を告げていた。
だけど、私の中には――“いつも通り”ではない感覚が、たしかにあった。
コートをロッカーにしまい、鏡の前で軽く髪を整える。前髪の分け目を直して、ほつれたピンを留め直す。それだけのことなのに、動きがどこか自然だった。
以前の私は、ここでいつも肩をすくめていた。
「また怒られるんじゃないか」
「今日も何か失敗するかも」
「他の人の視線が痛い」
そんな不安ばかりを抱えて、深呼吸してから自席に戻るのが日課だった。
けれど今朝の私は、まるで水面が穏やかな湖のように、心の波を立てることなく、そのまま椅子に腰を下ろすことができた。
それは、私が“何かを諦めた”からかもしれない。
でも、同時に“何かを受け入れた”からでもあった。
一ノ瀬専務の書類を整える指先が、以前よりも落ち着いているのが、自分でもわかる。
書類の角を揃え、ダブルクリップの向きをそろえ、チェック項目を手帳に再確認しながら目を通す。そのすべての所作が、ぎこちなさを失っていた。
(彼は、家では優しいお父さんなんだ)
そう思うと、どんなに冷たくされても、怖くなかった。
むしろ――「会社用の顔なんだ」と思えば、その態度さえ、どこか微笑ましくすら感じてしまう。
執務室の前に立ち、軽くノックをする。
「失礼します。ご確認いただきたい資料をお持ちしました」
声が、無理なく出た。
以前の私だったら、喉が詰まり、声が裏返りそうになっていた。
でも今は、心が安定していた。
彼が顔を上げる。
今日は、グレーのスーツにネイビーのネクタイ。シャツの襟元には、さりげなく小さなピンが留められていた。
私に視線を向けるでもなく、書類に手を伸ばして確認を始める。
指先が滑らかに紙をめくる。その動作も、表情も、どこか機械的に見えるけれど――私は、もう知っている。
その無表情の奥には、“誰かを守る人間らしさ”がちゃんと存在している。
ページの一枚をめくったところで、彼がふいに言った。
「……最近、落ち着いてきたな」
思わず目を見張った。
それは、あまりに不意の、そしてあまりに素直な“評価”だったから。
「えっ……あ、ありがとうございます」
たどたどしく返してしまった自分が、少しだけ恥ずかしかった。
でも、そのときの専務の表情は、以前とはどこか違って見えた。
目を伏せたままではあったけれど、口元の緊張がわずかにゆるんでいた。
それは、誰にも気づかれないほどのほんの一瞬の緩和。
だけど、私はそれを見逃さなかった。
そして、心の中でふっと息をついた。
(……うん、大丈夫。今の私は、ちゃんと仕事ができてる)
私が変わったのか、彼が少しだけ距離を近づけてくれたのか、それは分からない。
でも、“ほんの少しのやわらかさ”が、その場を確かに温めていた。
「以上です。何かございましたら、お申しつけください」
深くお辞儀をして、静かに執務室を後にする。
扉を閉じたあと、私は小さく息を吐いた。
(変わったな、私)
前の私なら、あの言葉に舞い上がっていた。
「褒められた」「嬉しい」「期待されてるかも」――そんな思考がぐるぐると頭を巡っていたはずだ。
でも今は違う。
私は、彼に好かれたいわけじゃない。
ただ、秘書として、信頼されたい。
その気持ちが、やっと胸の真ん中にすとんと落ちていた。
オフィスに戻ると、向かいの席の先輩がふと顔を上げた。
「高梨さん、最近落ち着いてきたよね。雰囲気、前より柔らかくなったっていうか」
「そうですか?」
笑いながら答えたけれど、内心では「それ、専務もさっき言ってた」と思っていた。
(あの人に言われるより、こっちのほうが照れるかも……)
自分の態度が変わったことを、誰かに指摘されるのは、ちょっとこそばゆい。
でも、それは私が“何かを乗り越えた証拠”でもあった。
誰にも言えない“秘密”を胸に抱えて、私は今、やっと自然体になれていた。
それが、こんなにも穏やかで、強いものだったなんて――
あの瞬間、彼の家庭を見て、心が崩れたときの私には、想像もつかなかった。
そして、そんな“自然な距離感”の中にこそ、長く働いていくための希望がある気がしていた。
だから私は今日も、いつもと同じ書類に目を通しながら――
静かに、だけど確かに、一ノ瀬颯真という人のそばで、少しずつ成長していこうと、そう思えた。
春の陽射しは柔らかく、ビルのガラスに反射して、キラキラときらめいている。
それなのに、私の心の中は、驚くほど静かだった。
ほんの数日前――大学のテニスコートで偶然見かけた、あの少女。
心春ちゃんと、そして彼女に「パパ」と呼ばれていた一ノ瀬専務の姿。
それを目の当たりにして以来、私の中の何かが、静かに変わり始めていた。
初めて知った事実に、最初は混乱した。胸がぎゅっと苦しくなった。
でも、それと同時に妙な納得感が、私の中にじわじわと広がっていった。
(……家庭があったんだ)
その一言がすべてだった。
彼の冷たさも、無表情も、突き放すような言葉も――
全部、何かを守るための手段だったのだと、私は勝手に“理解”していた。
そして、今。
その“理解している”という感覚が、私の心を、少しだけ強くしてくれていた。
会社のエントランスをくぐり抜け、受付のガラスドアが開いた瞬間、私はすっと背筋を伸ばした。
出勤時間のオフィスは、まだざわめきの少ない静かな空気に包まれていた。コピー機の立ち上がる音。コーヒーメーカーのポンプの音。キーボードを打つリズム。
そのすべてが、今日もいつも通りの“朝”を告げていた。
だけど、私の中には――“いつも通り”ではない感覚が、たしかにあった。
コートをロッカーにしまい、鏡の前で軽く髪を整える。前髪の分け目を直して、ほつれたピンを留め直す。それだけのことなのに、動きがどこか自然だった。
以前の私は、ここでいつも肩をすくめていた。
「また怒られるんじゃないか」
「今日も何か失敗するかも」
「他の人の視線が痛い」
そんな不安ばかりを抱えて、深呼吸してから自席に戻るのが日課だった。
けれど今朝の私は、まるで水面が穏やかな湖のように、心の波を立てることなく、そのまま椅子に腰を下ろすことができた。
それは、私が“何かを諦めた”からかもしれない。
でも、同時に“何かを受け入れた”からでもあった。
一ノ瀬専務の書類を整える指先が、以前よりも落ち着いているのが、自分でもわかる。
書類の角を揃え、ダブルクリップの向きをそろえ、チェック項目を手帳に再確認しながら目を通す。そのすべての所作が、ぎこちなさを失っていた。
(彼は、家では優しいお父さんなんだ)
そう思うと、どんなに冷たくされても、怖くなかった。
むしろ――「会社用の顔なんだ」と思えば、その態度さえ、どこか微笑ましくすら感じてしまう。
執務室の前に立ち、軽くノックをする。
「失礼します。ご確認いただきたい資料をお持ちしました」
声が、無理なく出た。
以前の私だったら、喉が詰まり、声が裏返りそうになっていた。
でも今は、心が安定していた。
彼が顔を上げる。
今日は、グレーのスーツにネイビーのネクタイ。シャツの襟元には、さりげなく小さなピンが留められていた。
私に視線を向けるでもなく、書類に手を伸ばして確認を始める。
指先が滑らかに紙をめくる。その動作も、表情も、どこか機械的に見えるけれど――私は、もう知っている。
その無表情の奥には、“誰かを守る人間らしさ”がちゃんと存在している。
ページの一枚をめくったところで、彼がふいに言った。
「……最近、落ち着いてきたな」
思わず目を見張った。
それは、あまりに不意の、そしてあまりに素直な“評価”だったから。
「えっ……あ、ありがとうございます」
たどたどしく返してしまった自分が、少しだけ恥ずかしかった。
でも、そのときの専務の表情は、以前とはどこか違って見えた。
目を伏せたままではあったけれど、口元の緊張がわずかにゆるんでいた。
それは、誰にも気づかれないほどのほんの一瞬の緩和。
だけど、私はそれを見逃さなかった。
そして、心の中でふっと息をついた。
(……うん、大丈夫。今の私は、ちゃんと仕事ができてる)
私が変わったのか、彼が少しだけ距離を近づけてくれたのか、それは分からない。
でも、“ほんの少しのやわらかさ”が、その場を確かに温めていた。
「以上です。何かございましたら、お申しつけください」
深くお辞儀をして、静かに執務室を後にする。
扉を閉じたあと、私は小さく息を吐いた。
(変わったな、私)
前の私なら、あの言葉に舞い上がっていた。
「褒められた」「嬉しい」「期待されてるかも」――そんな思考がぐるぐると頭を巡っていたはずだ。
でも今は違う。
私は、彼に好かれたいわけじゃない。
ただ、秘書として、信頼されたい。
その気持ちが、やっと胸の真ん中にすとんと落ちていた。
オフィスに戻ると、向かいの席の先輩がふと顔を上げた。
「高梨さん、最近落ち着いてきたよね。雰囲気、前より柔らかくなったっていうか」
「そうですか?」
笑いながら答えたけれど、内心では「それ、専務もさっき言ってた」と思っていた。
(あの人に言われるより、こっちのほうが照れるかも……)
自分の態度が変わったことを、誰かに指摘されるのは、ちょっとこそばゆい。
でも、それは私が“何かを乗り越えた証拠”でもあった。
誰にも言えない“秘密”を胸に抱えて、私は今、やっと自然体になれていた。
それが、こんなにも穏やかで、強いものだったなんて――
あの瞬間、彼の家庭を見て、心が崩れたときの私には、想像もつかなかった。
そして、そんな“自然な距離感”の中にこそ、長く働いていくための希望がある気がしていた。
だから私は今日も、いつもと同じ書類に目を通しながら――
静かに、だけど確かに、一ノ瀬颯真という人のそばで、少しずつ成長していこうと、そう思えた。