冷徹専務は、私の“嘘”に甘くなる

「好きです」なんて絶対言えない

「最近、専務といい雰囲気じゃない?」

昼休み、給湯室でコーヒーを淹れていたとき、ふと背後からそんな声が聞こえた。

振り向くと、同じ秘書課の先輩、相澤さんが少しからかうような笑みを浮かべてこちらを見ていた。

「えっ……?」

思わず間の抜けた声が出る。
コーヒーサーバーのボタンから指を離すのを忘れて、カップからコーヒーが少しあふれそうになっていた。

慌てて止めながら、私はようやく笑顔を作った。

「そんなこと、ないですよ」

「ふーん。でもこの間、打ち合わせのあと、廊下で二人で話してたの見たよ?なんか、雰囲気よかったなーって」

「え……あれは、ただの確認で……」

必死に言い訳を並べながらも、心臓の音がどんどん大きくなる。

“見られていた”という事実に対する焦りと、
“雰囲気がいい”と言われたことに対する、妙な嬉しさ――

それらが複雑に絡み合って、胸の中がぐちゃぐちゃになっていく。

(そんな風に……見えてたんだ)

彼にとっては、ただの業務連絡だったはずなのに。

私だけが、勝手に、あの空気に意味を持たせていたのかもしれない。

(……違う。そんなふうに見えてほしくない)

でも同時に――

(嬉しいって、思っちゃった)

そんな自分に、すぐさま自己嫌悪が押し寄せた。

午後の仕事中、私は自分の視線の行方に過敏になっていた。

いつもなら自然に送っていた報告メールも、
何気なく渡していた書類も、
そのどれもに“意識”が入りすぎてしまう。

(見られてるのかな)

(変に思われてないかな)

そう思えば思うほど、彼のそばでの立ち居振る舞いがぎこちなくなる。

でも――

(それでも、好きって思ってしまう)

彼が黙って資料に目を通す姿。
腕時計をちらりと確認するしぐさ。
話しながら、ふと視線を窓の外へ向ける横顔。

そのすべてが、いとおしくて、目を逸らしたくなった。

こんな気持ち、伝えたい。

いつか、ほんの少しでもいいから、

「好きです」と、言ってみたい。

でも――

(言っちゃいけない)

それは“してはいけないこと”のひとつ。

私には“婚約者がいる”ことになっている。
彼には“子どもがいる”ことを、私は知っている。

そんなふたりが、恋なんて――許されるはずがない。

だから私は、その言葉を心の中に何重にも包んで、深く沈めていくしかなかった。

「高梨さん、さっきの件、これでよかった?」

書類を渡された瞬間、彼の指先が私の手の甲に、ふわりと触れた。

一瞬のことだった。

でも、そのぬくもりが、まるで心の奥を直に揺らしたようで、息が詰まりそうになった。

「……はい。大丈夫です」

なんとか声を出して返したけれど、視線は合わせられなかった。

(言いたい)

(「好きです」って、言いたい)

何度も心の中で繰り返す。

それなのに、口に出すことは決してできない。

“好き”というたった二文字が、私の中では――いちばん、遠い言葉になっていた。

夕方、オフィスを出て歩く帰り道。

信号を待ちながら、スマートフォンの画面を何度も開いては閉じた。

彼の連絡先が表示されたまま、指が動かない。

(もちろん、仕事上のやり取りしかしたことはない)

でも、ただ名前を見るだけで――胸が締めつけられるような気持ちになる。

(こんなに、好きになってしまったんだな)

それを、ようやく自分の中で認めてしまった瞬間――目元が熱くなった。

どうしてこんなに、涙が出そうになるんだろう。

誰にも言えない。

誰にも気づかれちゃいけない。

けれど、心の中では毎日のように、「好きです」と呟いている。

彼に言いたくて、でも言えなくて。
ただ、それだけで、涙があふれそうになる。

(……好きです)

今日は、心の中で何回そう繰り返しただろう。

ただ一度でいい。
本当に一度だけでいい。
その言葉を、口にできたらどんなに楽になれるだろう。

でも、叶わない。

この想いは、“抱くだけ”でしかいけない。

夜、眠る前。

ベッドの中で、手を胸に当てながら、私はまた心の中で呟いていた。

――好きです。

優しくしてくれるたびに、苦しくなる。

笑ってくれるたびに、涙が出そうになる。

この気持ちを“間違い”にしたくない。

でも、“本物”にもできない。

だから私は、今日もまた――

誰にも聞こえない声で、「好きです」と言った。

ただ、それだけの夜だった。
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