冷徹専務は、私の“嘘”に甘くなる

もう一つの嘘

「……君も、婚約者がいるんじゃないのか?」

ホテルのラウンジを出て、少し歩いた先の静かなカフェ。
お見合いが終わったあと、自然な流れで「もう少しだけ話しませんか」と切り出したのは、彼女のほうだった。

まるで、何かを確かめたいような、
あるいは、ちゃんと終わらせたいような、そんな目をしていた。

そして俺も――
このまま終わらせるわけには、いかなかった。

ずっと気になっていた彼女の“婚約者”の存在だ。

「……婚約者の話、ずっと気になってた」

静かに切り出すと、彼女は少しだけ身を固くした。

「秘書課で噂になってた。君自身がそう言ったって」

「本当なのか?」と続けようとして、言葉を切った。

彼女は、ゆっくりとコーヒーカップを置いて、目線を落としたまま小さく息をついた。

「――あれは、嘘です」

「……嘘?」

彼女の声は震えていた。
でも、その瞳はどこまでも真っ直ぐだった。

「……会社に居場所がなかったんです。私が、専務の担当になったことをよく思っていない人たちがいて」

「ずっと、冷たくされて。陰でいろいろと言われて。ある日、どうしても耐えられなくなって……」

「思わず、言ってしまったんです。“婚約者がいる”って」

「それだけで、少し空気が変わって。皆、私に興味を失ってくれて……それが、すごく楽で」

「そのまま、嘘を訂正できなくなって……」

静かな語り口の中に、
どれほどの孤独と苦しみがあったかが、ひしひしと伝わってきた。

「だから、あの言葉には……意味なんてなかったんです」

「誰かを想っていたわけでも、相手がいたわけでもなくて」

「ただ、逃げたかっただけでした」

胸の奥が、締めつけられた。

ずっと、誰にも言えなかったんだ。

ただの“ひとりの社員”として、
自分の立場を守るために、嘘をついてきた。

(……あのとき、気づいてやれたら)

言葉にはできなかった後悔が、静かに波紋のように広がる。

「……ごめん」

ぽつりと、自然にその言葉が出ていた。

「気づけなくて。君がそんなに、苦しかったなんて」

彼女は、小さく首を振った。

「専務のせいじゃないです。私が、勝手に自分を守るためについた嘘ですから」

彼女がずっと張っていた“嘘の壁”が、
音を立てて崩れていくのを、俺はただ見つめていた。

そして、そのとき初めて、
自分の中にあった“壁”も、一緒に崩れた気がした。

彼女には婚約者はいなかった。
俺は、ずっと彼女を“部下として”しか見てはいけないと思っていた。

でも今――

ふたりの間にあった“誤解”が、すべて取り払われたとき。

初めて、まっさらな距離が現れた。

その距離は、
“恋をしてもいい”という希望に、どこか似ていた。

(ようやく、始められるかもしれない)

そんな予感が、
春の午後の光のように、胸の奥で揺れていた。

帰り際、彼女が小さく言った。

「今日は、来てくれてありがとうございました」

その一言に、思わず胸が詰まった。

彼女の横顔は、どこか切なげで、どこか優しくて。

俺はただ、小さく頭を下げることしかできなかった。

でも、胸の奥にあった“苦しさ”は――
その日だけは、少しだけ、温かさに変わっていた。

ほんの少しのときめきと、
静かな希望が、心の底に芽を出し始めた。
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