冷徹専務は、私の“嘘”に甘くなる

エピローグ

朝のダイニングに、香ばしいトーストの匂いが漂っていた。

フライパンの前には、エプロン姿の澪。
彼女の隣では、相変わらず不器用な手つきでベーコンをひっくり返す心春――もう中学生になった彼女は、制服姿が少し大人びて見える。

「焦げてない? 焦げてないよね?」
「うん、大丈夫。じょうず、じょうず」

ふたりで笑いながら作業する姿は、見慣れた朝の風景になっていた。

その様子を新聞を読みながら眺めていると、心春がふとこっちを見た。

「ねぇ、パパ」

「ん?」

「澪さんのこと、好きになったのって……会社に入ってから?」

唐突な問いに、新聞の活字が一瞬にして目から消えた。

コーヒーをひと口飲んで、さりげなく新聞を折りたたむ。

「……どうして、そんなこと聞くんだ?」

「うーん、なんとなく?」

心春は、トーストにいちごジャムを塗りながら、飄々と答えた。

「この前、澪さんが大学のテニス部の頃の話してたの。でさ、テニスコートの隣の保育園にパパ、たまに迎えに来てたでしょ? まさかあのときから、澪さんのこと知ってたんじゃないの〜?」

そう言って、心春はわざとからかうようにニヤッと笑った。

俺は、一瞬だけ視線を逸らした。
たしかに、金網の外から――
彼女が笑っている姿を、密かに見ていた。

無邪気な少女と楽しそうに言葉を交わす、若い女子大生。

その笑顔が、やけにまぶしくて。
その声が、なぜか耳に残って――
自分でも理由がわからないまま、足を止めた。

「……言ってないよ」

少しの沈黙のあと、俺はそう答えた。

「え、なにを?」

「澪には、言ってない。あの頃、見てたことも、覚えてたことも」

心春は目を丸くしたあと、吹き出すように笑った。

「だよねぇ〜。三十過ぎのおっさんが女子大生のこと陰から見てたって、キモいもんね」

「……お前な」

「でも、ちょっとロマンチックかも」

そう言って心春は、ジャムのついた指をぺろりと舐めて、ウインクする。

「うん、安心して。あたしも一生、澪さんには言わないでおく」

その言葉が、あまりにも自然すぎて、俺はつい苦笑した。

「……頼むよ、ほんとに」

「任せて。“オトナの秘密”ってことで」

どこでそんな言葉覚えてきたのかと呆れつつも、
俺の胸の奥には、確かに少しだけ温かいものが灯っていた。

やがて、澪が「できたよー」とトレーを持って席に戻ってきた。

焼きたてのトースト、フルーツヨーグルト、スクランブルエッグ。

澪はふたりの様子を見て、少し首を傾げた。

「どうしたの、何か話してた?」

「んー、ひみつ」

心春がそう言って笑うと、澪は不思議そうに目を細めたが、
すぐに優しく笑って「じゃあ、後でこっそり教えてね」と言った。

この空気が、愛おしいと思った。

この何でもない朝が、何よりの幸せだと――
心から思った。

過去の金網越しの記憶も、
すれ違い続けた日々も、
たくさんの誤解や、言えなかった想いも――

全部この朝のためにあったのかもしれない。

隣にいる彼女と、
これからの未来を、一緒に歩いていける。

そして、その未来には――
心春がいて、笑い声があって、パンの香りがある。

それだけでいい。

たとえ何も言わなくても、
彼女の笑顔が“今”を愛してくれていることを知っているから。

俺は、黙って胸の奥に決めた。

――この秘密は、一生、胸の中にしまっておこう。
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