先生の愛人になりたい。【完】
放課後の匂い
教室にはもう誰もいなかった。
放課後、日が傾く時間帯の教室は、どこか寂しげで好きだった。蛍光灯が消えた空間に、窓から差し込む茜色の光。制服のまま、私は一番後ろの席に座り、ただぼんやりと窓の外を眺めていた。
生徒たちは部活や帰宅で姿を消し、廊下も静かになっていた。
けれど、私は帰りたくなかった。家に帰っても、母の厳しい視線と、空虚な会話が待っているだけ。表面上は「理想の娘」を演じていても、その仮面を脱ぐ場所はどこにもなかった。
ふと、教室のドアが開いた。
「本宮?……まだいたのか」
その声に、私は反射的に立ち上がった。
「水無瀬先生……」
そこに立っていたのは、現代文を教える水無瀬 伊月先生だった。
スーツのジャケットを脱いだシャツ姿。いつもと変わらない落ち着いた雰囲気が、教室の空気を少し柔らかくする。
「もうすぐ学校閉まるぞ。帰りなさい」
「……はい」
素直に頷いたはずなのに、足は動かなかった。
先生が私に視線を向ける。いつものように、距離を保った優しい目だった。
「なにか、あったか?」
その一言が、胸の奥に触れた。
なにもない。ただ、ここにいたかっただけ。でも、それを言ってしまえば、私はまた「普通の生徒」に戻ってしまう。そう思った瞬間、口が勝手に動いた。
「……先生って、いつもこんなに遅くまで残ってるんですか?」
「ん?ああ、まあ。プリント作ったり、報告書書いたり、いろいろあるからな」
「先生って、大変ですね」
「まあな。教師ってのは、生徒に見せない仕事の方が多いんだよ」
水無瀬先生は、ふっと笑った。その笑顔に、心が揺れた。
「……先生は、疲れてるとき、どうしてますか?」
唐突な質問に、自分でも驚いた。
「え?」
「私、最近……疲れてるんです。頑張っても、頑張っても、誰にも見てもらえないような感じがして」
言葉にした途端、喉の奥がきゅっと締めつけられた。
水無瀬先生は黙って、私の方をじっと見ていた。
「……誰にも言えなかったんです。こんなこと」
口元が震える。泣きたくなかったのに、泣きたくなっていた。
「……無理してるんだな、お前」
水無瀬先生の声が、優しく響いた。
「俺も、似たようなもんだったよ。学生の頃も、教師になってからも。『ちゃんとしてるように見える』って言われるけど、中身はぐちゃぐちゃだった」
その言葉に、胸がぎゅっとなった。
「先生……」
思わず名前を呼ぶと、水無瀬先生はそっと目を伏せた。
「本宮。お前は、いい子すぎるんだよ。もっと、わがまま言っていい。自分の気持ち、大事にしてやれ」
「……先生は、私のこと、見てくれてますか?」
また、言ってはいけないことを口にしていた。
沈黙が落ちた。空気がぴんと張りつめる。
水無瀬先生は、ゆっくりと私の方へ歩いてきた。そして、私の隣の席に腰を下ろす。
「見てるよ。ずっと」
たったそれだけの言葉に、涙が零れそうになった。
「……ありがとう、先生」
私は視線を落とし、机の木目を指でなぞった。心の奥にある感情が、少しずつあふれ出しそうで、怖かった。
でも、それを止める術はもうなかった。
⸻
それから私は、放課後になると教室に残るようになった。
先生と交わす他愛のない会話。
重くない、でもどこか深い眼差し。
それが、私の中に少しずつ何かを芽生えさせていった。
⸻
「本宮、お前って……本当は、誰かに頼りたいタイプだよな」
「……そうかもしれません。誰かに、全部、許してほしいって思ってるかも」
「……危ない発言だな」
「先生が相手なら、危なくてもいいんですけど」
冗談めかして言ったつもりだった。でも、先生は笑わなかった。
真剣な目で、私を見ていた。
「本宮……それ以上は、言うな」
そう言った先生の声は、苦しそうだった。
けれど私の心は、もう引き返せなかった。
⸻
その日、帰り道の夕暮れの中で私は思った。
この人を、もっと知りたい。もっと近づきたい。
先生の手の温度を、心の奥まで感じたい。
“好き”という言葉では足りない。
“恋”よりも、もっと深くて、罪深いもの。
それが、私の中で静かに膨らんでいった
──私、先生の愛人になりたい。
放課後、日が傾く時間帯の教室は、どこか寂しげで好きだった。蛍光灯が消えた空間に、窓から差し込む茜色の光。制服のまま、私は一番後ろの席に座り、ただぼんやりと窓の外を眺めていた。
生徒たちは部活や帰宅で姿を消し、廊下も静かになっていた。
けれど、私は帰りたくなかった。家に帰っても、母の厳しい視線と、空虚な会話が待っているだけ。表面上は「理想の娘」を演じていても、その仮面を脱ぐ場所はどこにもなかった。
ふと、教室のドアが開いた。
「本宮?……まだいたのか」
その声に、私は反射的に立ち上がった。
「水無瀬先生……」
そこに立っていたのは、現代文を教える水無瀬 伊月先生だった。
スーツのジャケットを脱いだシャツ姿。いつもと変わらない落ち着いた雰囲気が、教室の空気を少し柔らかくする。
「もうすぐ学校閉まるぞ。帰りなさい」
「……はい」
素直に頷いたはずなのに、足は動かなかった。
先生が私に視線を向ける。いつものように、距離を保った優しい目だった。
「なにか、あったか?」
その一言が、胸の奥に触れた。
なにもない。ただ、ここにいたかっただけ。でも、それを言ってしまえば、私はまた「普通の生徒」に戻ってしまう。そう思った瞬間、口が勝手に動いた。
「……先生って、いつもこんなに遅くまで残ってるんですか?」
「ん?ああ、まあ。プリント作ったり、報告書書いたり、いろいろあるからな」
「先生って、大変ですね」
「まあな。教師ってのは、生徒に見せない仕事の方が多いんだよ」
水無瀬先生は、ふっと笑った。その笑顔に、心が揺れた。
「……先生は、疲れてるとき、どうしてますか?」
唐突な質問に、自分でも驚いた。
「え?」
「私、最近……疲れてるんです。頑張っても、頑張っても、誰にも見てもらえないような感じがして」
言葉にした途端、喉の奥がきゅっと締めつけられた。
水無瀬先生は黙って、私の方をじっと見ていた。
「……誰にも言えなかったんです。こんなこと」
口元が震える。泣きたくなかったのに、泣きたくなっていた。
「……無理してるんだな、お前」
水無瀬先生の声が、優しく響いた。
「俺も、似たようなもんだったよ。学生の頃も、教師になってからも。『ちゃんとしてるように見える』って言われるけど、中身はぐちゃぐちゃだった」
その言葉に、胸がぎゅっとなった。
「先生……」
思わず名前を呼ぶと、水無瀬先生はそっと目を伏せた。
「本宮。お前は、いい子すぎるんだよ。もっと、わがまま言っていい。自分の気持ち、大事にしてやれ」
「……先生は、私のこと、見てくれてますか?」
また、言ってはいけないことを口にしていた。
沈黙が落ちた。空気がぴんと張りつめる。
水無瀬先生は、ゆっくりと私の方へ歩いてきた。そして、私の隣の席に腰を下ろす。
「見てるよ。ずっと」
たったそれだけの言葉に、涙が零れそうになった。
「……ありがとう、先生」
私は視線を落とし、机の木目を指でなぞった。心の奥にある感情が、少しずつあふれ出しそうで、怖かった。
でも、それを止める術はもうなかった。
⸻
それから私は、放課後になると教室に残るようになった。
先生と交わす他愛のない会話。
重くない、でもどこか深い眼差し。
それが、私の中に少しずつ何かを芽生えさせていった。
⸻
「本宮、お前って……本当は、誰かに頼りたいタイプだよな」
「……そうかもしれません。誰かに、全部、許してほしいって思ってるかも」
「……危ない発言だな」
「先生が相手なら、危なくてもいいんですけど」
冗談めかして言ったつもりだった。でも、先生は笑わなかった。
真剣な目で、私を見ていた。
「本宮……それ以上は、言うな」
そう言った先生の声は、苦しそうだった。
けれど私の心は、もう引き返せなかった。
⸻
その日、帰り道の夕暮れの中で私は思った。
この人を、もっと知りたい。もっと近づきたい。
先生の手の温度を、心の奥まで感じたい。
“好き”という言葉では足りない。
“恋”よりも、もっと深くて、罪深いもの。
それが、私の中で静かに膨らんでいった
──私、先生の愛人になりたい。