堕ちていく

第29話 くまくんと、希望のタネ

結婚式から一年。
紗英と航平は、都心から少し離れた自然の豊かな町へ引っ越した。
車椅子でも安心して暮らせるバリアフリーの平屋を、小さな庭付きで借りた。

庭には、紗英が大好きなミモザとラベンダーが咲いていた。
航平は毎朝、土に触れながら植物を手入れし、紗英はリビングの一角に小さなアトリエをつくり、新しい絵本の構想を練っていた。

絵本は、今や子どもたちだけでなく、障がいをもつ人や、心に傷を負った大人たちにも届くようになっていた。

ある日、紗英の元に、一本の手紙が届いた。
それは、病院で同じように闘っていた女性からだった。

> 「あのときの“くまくんのとおいみち”が、私を生かしてくれました。
紗英さんが前を向く姿に、私ももう一度立ち上がろうと思えました」



紗英は手紙を胸に抱き、窓の外を見つめた。
そこには、朝露をまとった花々が、柔らかな光を反射していた。



二人は定期的に、地域の子どもたちや、障がいを持つ親子向けに「絵本とやさしい音楽のひろば」を開催するようになっていた。
読み聞かせだけでなく、みんなで絵を描いたり、音を奏でたり、ひとりひとりが“表現する喜び”を見つける場になっていた。

「見て、紗英先生!わたしの絵、くまくんににてるでしょ!」

「ほんとだ。すごくやさしい顔してるね。きっと、描いたあなたに似てるのね」

そう言うと、子どもたちは嬉しそうに笑った。
その笑顔が、紗英にとって何よりの力になっていた。




夜になると、ふたりはソファに並んで座り、今日のことを語り合った。

「ねぇ航平さん、私たち、たくさんのものを失ったけれど、
そのぶん、すごく大切なものに出会えたよね」

「うん。きっと人生って、何かを失っても、また別の光が差してくるんだよ。
それに気づけたのは、君が前を向いてくれたから」

外では、夜風が優しく木々を揺らしていた。
灯りのともる小さな家から、ふたりの未来が、今日も静かに続いていた。

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