鳴けぬ蛍が身を焦がす

鳴けぬ蛍が身を焦がす(短編)

「あ。」
また居る。月に一度は必ず足を運ぶなんて、よほど大切な人が亡くなったのだろうか。見た目は四十から五十代くらいの清潔感のある男性。優しそうな眼もとには鼻当ての無い眼鏡が居座っている。
彼をこの墓地で初めて見たのは、桜が咲く季節だった。立ち止まって花々を見上げる姿が、憧れのあの人に似ていて見とれてしまった。次に見た時は夏だった。木漏れ日の下を、せっせと水を運びながら鼻歌を歌っていた。聞いたことのある唄だったが、思い出せなかた。その次は秋、秋桜が群生しているあたりをゆっくりと歩いていた。お墓の中を散歩するなんて、と思ったが、自分も大概だなと自嘲した。冬には、雪の中を目立つ洋装で歩いていた。真っ黒なコートは熊の様にも見えたが、彼だとわかるとなぜか安心した。
そして、また春が来た。彼は変わらず此処に来た。草餅と、立派な仏花を持っている。最近は頻繁に来ているせいでそんなに汚れていないのに、墓石を綺麗にするための掃除用具も忘れずに持参。そんな彼に、私はこっそりと近づいた。

「もうすっかり温かくなりましたね。」
「あぁ。この天気じゃ、昼寝がはかどってしまうね。」

おおらかに笑った彼は、遠くに居る猫を見てそう言った。くぁと大あくびをしてから、番なのか寄り添って日向ぼっこをしている。閉じられた細い眼は、笑っているようだった。

「さて…と。」

彼は迷いなく歩みを進める。何となくついて行く私は、着物の端を指でつまんで抑えながら階段を上った。二つ目の大きな木を右に入って、三つ目のお墓———「飯島家之墓」と書いてあるそれは、相変わらず立派だ。

「また、来てしまったよ。」
「本当に。でも…墓石、こんなに綺麗ですよ。もう磨かなくても良いんじゃないですか?」
「お墓は残された者のためにあるのだから。好きにさせてもらうよ。」

朗らかに笑いながら、水をかけ、うっすらと積もり張り付いている砂を雑巾で取り払っていく。これをしているとき、彼は酷く楽しそうなのだ。枯れた花は取り除き、ふやけた茎は鋏で斜めに切り落とし、買ってきた仏花を足して形を整える。綺麗なお皿に草餅を乗せ供えると、燐寸で線香に火を付けて窪みへ入れ、手を合わせた。私も並んで手を合わせる。つんと鼻孔を擽る匂いは、彼の持ってくる線香だけの香りだ。どこまでも届いてくるから、彼が来るとすぐに気が付いた。一連の動作が終わると、頂いた草餅を頬張らせてもらう。中には粒餡が入っていた。

夏になった。桜の散った気配も薄れ、青々とした緑と天色の空、白い入道雲が空を覆っている。いつもの掃除を見物していると、突然雲が太陽を隠した。ぽつぽつと降り始めた雨は、瞬く間に土砂降りに代わり、遠くの空だけは明るいままに雫を落とし続けた。

「こっちへ!」
「夕立か… 。」

私は大きな木の下に彼を呼んだ。彼は上着と荷物を抱えて走り、木の下まで来ると雨に当たらぬ様、幹に背を付ける。狭いこの空間で、私たちは何も話さずに空を見上げていた。低い位置に蠢く雨雲から落ちてくる白雨。夕日が反射した可笑しな色の薄暗さ、墓地という背景が重なって不気味なのに、彼は笑っていた。

「あの世と繋がっていそうな空だ…。」
「…そうですね。」

楽しそうに、でも悲しそうに目を細めて笑う彼が、何を、誰を考えていたのか、私は全くわからなかった。ただ、眼鏡に付いた雨粒が伝う光景は、まるで涙の様だと思った。

秋になり、涼しい風が金木犀の香りを運んできた。いったいどこから香っているか分からないのに、人を夢中にさせるから花言葉は「陶酔」だ。彷徨う様に歩いていると、彼の後ろ姿を見つけた。例の散歩道を歩いて来たのだろう、桃色の秋桜を持ち立ち尽くしていた彼は、白い彼岸花を見つめていた。

「去年より増えているな。」
「ここのは野生らしいですよ。球根一個でもあれば、」
「勝手に増える…か。」
「そういうことです。」

ふっと笑った彼を見て、私は心が温かくなった。それはうまく表せない、懐かしく、くすぐったいけれどよく思い出せない、難しい感覚だった。その違和感の正体を探ろうと思考を巡らせたが、彼が歩き出してしまったので出来ずに終わった。そのあとは、いつものように掃除とお供えを済ませた。お供え物は栗饅頭だった。
次に来るのは冬だろう。お供え物はきっと、季節の果物の香りがする白餡饅頭か、はたまた胡桃柚餅子か。私は、おすそ分けに期待しているふりをして、本当は彼の姿を見るのが楽しみということを意識しないようにした。
しかし、考えていたよりもずっと早い時期に、彼は来た。ひと月も経たずに再会したと思ったら、なんとその次は一週間後に来た。その後、徐々に頻度は増えていき、ほとんどの日は手ぶらで来て、無言で手を合わせるだけになっていた。
そして今日もまた彼は来た。

「あ。」
「や。…今日は、結果を知らせに来たんだ。」

私はその声を聴いて、首を傾げた。

「あと半年以上は…生きられないと。」

私は息を止めて、虚ろな彼の瞳を覗き込んだ。じっと下を見つめる彼は、なぜか少し笑ってため息をつく。
———満足という言葉が相応しい。
人は、死を宣告されると誰しも打ちひしがれるのだと思っていた。これからどうしたら良いのか、真っ暗になり何の光も見えなくなる。先を生きていける人間に自分のことを覚えてもらおうと託すくらいしか無く、無気力になってしまうものだと。

「…生きていたら、今頃どんな姿なのだろうな。」
「……誰のことです?」
「千織ちゃん。」

彼の重厚感のある声に、息を飲んだ。それは。

「……私の、名前?」
「私はもう、五十二になってしまったよ」
「…。」
「君の言っていた幸せは、見つけられそうにない。」
「…な。」
「すまない。…私の幸せは、君と未来を見ることだったから。」
「…なに、」
「もうすぐ、そちへ行くよ。」
「だめよ!!!」

その言葉を放った瞬間、彼の顔めがけて風が吹いた。私の体を吹き抜ける風が、彼の頬を叩いたようにも思える光景だった。

「今…何か…。」
「寅一、さん…。」

零れた涙は、地面に落ちても沁みを作らなかた。立ち上がって一歩踏み出した彼がぶつかっても、感覚は無い。
あの日も、あの時も、声はずと、届いていなかったのだ。
強い香りのお線香。彼が来たとすぐに気づいて、お供え物を一緒に食べた。 ———ここは、私のお墓だから。

***
「千織ちゃん、千織ちゃん…!」
隙間風のようなか細い呼吸音が、飯島家の寝室に響いている。庭先に咲き乱れる白い彼岸花は、彼女との思い出の花なのに、これから起こることへの弔いに感じてしまう。突き抜けるような高い空の季節、時折涼しい風が吹く今日に、今まさに消えようとしている命火があった。

「貴方は…自分の幸せを…見つけて。それでそのために生きるの…。」
「千織ちゃん…駄目だ、逝くな。」

青白く細い、彼女の体が痛々しい。口元を覆った布のせいで顔は半分しか見えない。くぼんだ目元と骨ばった指先は黒くくすんでいる。
嗚呼、小さな火が消えてしまう。駄目だ、まだ、そんな———。
蝋燭の火が消え、ツと細い煙を伸ばす様に。力の抜けた彼女は、息を引き取った。冷たくなってしまった彼女の手を握った喜田寅一———私は、涙をこらえて震えた。

「寅一…。あんたもここに居てはうつってしまうから…。…何も言わずに、もう、行きなさい。」
「千織のことは、忘れて良い…。」

———忘れることなど、誰が出来るものか。
私は適当な言葉を見つけられず、唇を嚙み締めた。
私は普通の大学生だった。両親は軍需産業関連の会社を経営しており、銃器開発の第一人者である父親に追いつこうと、勉学に励んでいたのだ。周りよりも裕福なために流行りには疎く、また色恋も全くもて興味がなかった。
しかしある時、「社員の娘はどうか」とお見合いの話が持ち上がった。私は「相手と両親が納得しているのなら自分は従う」と温度の無い返事をした。両親は、そんな私を心配していたのだろうが、お見合いの話はとんとん拍子に進んでいた。故に、顔合わせ当日は何の合図も無しにやってきた日常と同じ軽さに思えた。
そう、彼女に会うまでは。

「はじめまして、寅一さま。飯島トシの娘の、千織でございます。」

雷に打たれた衝撃とでも言えばよいのだろうか。見た目がずば抜けて可愛らしいというわけでもないのに、私は一瞬にして心を奪われたのだ。この人を幸せにしたいと、本能が叫んでいた。それはまるで、地に落ちていた種が芽吹き、花が咲き誇りまた実を着けて落ち、種からまた木が生るような。それを繰り返して森が出来ていくのを、何百倍速かで体感するような奇妙な感覚だった。それから私たちは、まるで元々そうであったかのように恋仲になっていった。私が在学中ということもあったので、卒業してから結婚しようと約束もした。彼女は良く笑い、何でも楽しみ、知らないことをやってみたいと子供のような愛らしさもあれば、私の悩みを聞き、西洋のお菓子を作り、洋琴を弾く女性らしい一面を備えた才女であった。飯炊きは母にしごかれているのか、たまに指に切り傷を作っているようで、私は心配になったが、「このくらいのこと、あの会社を継がれる未来の旦那様のためには我慢しなければ」と明るく振舞っていた。
幸せだ。一人の人間の登場で、セピア調だった世界が豊かに花めいていく。早起きの習慣や通いなれた道ですら、彼女に会うためなのだと思うと弾まずにはいられなかった。
しかし、それは突然にやってきた。彼女が流行り病を罹ったのだ。接触、空気感染をするそれは、当時の医学では不治の物であった。弾んでいた私の日常は、口元を布で覆い隠し、彼女の元へ訪れては徐々に心が蝕まれていく静かなものへと様変わりした。自分の世界を変えてくれた彼女を失ってしまったら、私は果たしてどうなるのか。もう彼女に出会うまで自分がどのように生きて来たかも思い出せないのに。私は彼女の手を握りながら、蝉の声の止んだ外を見た。群生している白い彼岸花の蕾が、もうすぐ開きそうだった。
それからはあという間だった。こんなにも簡単に人は死んでしまうのかと、驚きと喪失感、底知れぬ悲しみの渦に私は飲み込まれた。きっと一生忘れることなど出来ない。共に過ごした時間は、決して⾧くはなかったのに、こんなにも心に入り込んできた彼女が、もうこの世のどこにも居ないなどと、信じられなかった。彼女の両親は、私に「籍は入れてないのだから」と別の人との未来について示唆するようなことを言っていた。気を使ってくれたのだろうが、私はそれがひどく辛かった。彼女のことも、彼女の両親のことも大切に思っていたから。皆の幸せな未来に向かって、自分の旅路が始まろうとしていたのに、突然真っ暗になってしまうなんて。
叶うのならば、もう一度彼女に会いたい。一言でいいから言葉を交わしたい。心地の良い声を、笑うと細くなって消えてしまう猫のような目を、見せて欲しい。それだけでいいのに。

「千織ちゃん、それが、私の幸せなんだよ。」

一生叶うことの無い、“幸せ”。彼女に言われた通りに探してみても、見つかるはずの無いもの。
私は悲しみを埋めるように墓地へ行った。「飯島家之墓」は、いつでもそこにあった。彼女がずっとそこに居てくれているような気がした。
なんとか生活を出来るようになり、大学を卒業して父の会社に就職。武器開発と製造の指揮をとる激務に加え、来たる戦争の為外国語の勉強もした。彼女を思い出すのは、墓地に行く日だけと心に決め、伴侶も持たず、見合いも断り一人で仕事を続けた。やがて会社は大企業に成⾧し、役員の一人として独逸への宣戦布告など需要を狙い経営を勧めた。国営の成すままに。こうして一生を終えるのだと思っていた。若かりし頃の色鮮やかな想い出は、その姿を変えないまま私の中に残り続け、それと共に永遠の眠りにつくのだろう。御年、五十二。あと二十年ほどで彼女の元へ逝けるだろうか。なんて長い時間であろう。永眠を渇望するなどと、時代にそぐわぬ男児であるが、心は少年のまま時を止めているのだ。仕方のないこと。そんな一種の悟りを開き始めた矢先に、私は病にかかっていることを医者に診断された。亜米利加へ行き最先端の医療を受ければ根治すると言われ、会社の連中にもそれを勧められた。しかし、私はその余命を受け入れた。諦めではない。悲観でもない。追従、いや、盲従と言った方が正しいだろうか。
———しかし今、私は風に叩かれた。
あたりを見回すが、もちろん彼女はいない。とっくの昔にこの世を去っている彼女に、自分の死期について報告した瞬間に風が吹くなど、単なる自然現象に過ぎないだろう。しかし、妙な期待感が私を支配していた。
いつだったか、役員になりたての頃から季節に一度はここに来るようになった。それだけ会社が私の力を必要とせずとも回るようになったということなのだろう。手土産に甘味を持ち、必ず掃除道具と仏花、秋には秋桜を摘んで彼女に会いに来た。お供え物は置いていくよりも、食べることで供養になり且つ烏にも荒らされないで済むと住職が言っていたから、自分の好きなものを選ばせてもらった。必ず一つだけなのは、もう幾つも食べられるほど若くないからだ。
春は白い桜が舞い、仰ぎ見る私を見上げる彼女を思い出した。昼寝をしていた番の猫は、私の求めた“幸せ”に似ていた。
夏は木々と入道雲が聳える下で、好きだった唄を口ずさんだ。夕立の時に見た、逢魔が時の空が忘れられない。彼女に近い場所にいるように思えた。
秋には少し冷たい風と、金木犀の香りが迎えてくれた。秋桜畑と、年々増えていく白い彼岸花は、日陰でも光っているように見えて、彼女の死に際の肌を思い出した。冬は寒くて⾧居は出来なかったが、雪が降っていても行くと決めた日に必ず行けたのは、外国製の外套と、彼女の眠る場所に温もりが眠っているように感じたからだ。
いつの季節も、彼女を思い出した。そして彼女も、私をどこかから見守ってくれているのではないかと、思わずにはいられないのだ。こうしている今も、もしかしたらどこかで私を見ているのではないだろうか。

「千織ちゃん…。」

柄にもなく神様に願ってしまう。この中年の男は、もうすぐ天へと昇ります。あと幾ばくも無い命の望みを、聞いてくれないだろうか。

「もう一度…。」

「寅一さん。」

意識を疑った。音では無いものが伝わってきたからだ。忘れかけていた彼女の声は、少し遠くの方から、あの時と変わらないまま頭の中に届いた。私は半分無意識の状態で、曇った空を見上げた後、何かに導かれるように足を進めた。向かった先に在ったのは、通いなれていても知らなかった、白い彼岸花の群生地であった。風に揺れる、白く細い無数の花弁。どこからか香ってきていた金木犀が傍に立っている。鼻をつく秋の香りはここで作られていたのだ。納得したその時、胸のあたりがぐっと痛んだ。思わず乱れる呼吸を押さえよう深呼吸をするが、鼓動は激しくなっていくばかり。気のせいではない、呼吸が苦しいように感じるのは、病が進行している所為なのだろうか。一瞬視界が暗く瞬き、ガクリと力が抜けたと思えば地面に膝をついていた。薄目に映る彼岸花に近い距離で見つめられているような気がした。そういえば、彼岸花は「死人花」という異名を持つ。このままここから旅立つのも、悪くは無いかもしれない、と笑った瞬間、先ほどのような強い風が吹き、雲が開けて光の矢が射した。
当たりが明るくなる。横目に見える風景は暗いままで、此処だけが照らされているのだと気付いた。そして、ふと。
———私に影を落としているのは、何だ?
ゆっくりと見上げる。視線を上げる度に、心が高揚していく。まさか、そんな。

「千織、ちゃん…。」
「寅一さん。」

呼吸を忘れ、目を見開いて彼女を焼き付けた。あの時の姿まま。ぼんやりと光る、千織ちゃん。風に煽られない長い黒髪。優しい瞳。彼女の開かれた口から零れる言葉は、遅れて自分の頭に響いてくる。

「幸せ、ですか?」

その言葉で、胸の中の蟠りが吹き飛んでいた。柔らかい風が吹いているだけなのに、強い衝動が全身を行き渡る。金色に輝くこの空間に、蛍の激情は弾けたのだ。
———やはり、君も、私を想ってくれていたんだね。

「今、幸せになれたよ。千織ちゃん。」

太陽の光が眩しくて、涙が出た。細めると目尻を伝い、膝に置いた手の甲に落ちる。一度の瞬きの間に、目の前の幻想は消え去り、再び鈴虫の鳴く墓地特有の静けさを取り戻した。
ゆっくりと立ち上がると、オオカバマダラが目の前を通り過ぎて行く。橙色のそれを目で追いかけると、金木犀の小さな花が視界に入る。香りを肺一杯に吸い込むと、胸の痛みが和らいだ気がした。白い彼岸花は、先ほどと変わらない様子で咲いているのに、少しの黄色を含んだ花だということに今更気が付く。そして、この場所を隠す様に立つ杉の木は、桜の葉と違い紅葉していない代わりに、冬に向けて枯れ始めの姿を見せていた。ささくれ立た木肌は、朱古力(チョコレート)のような色を連想させた。
帰路に就くと、憑き物が取れたような気分だった。彼女の家に向かう時の、弾む心地さえ感じてしまうほどに、温かい心を自覚した。
桜並木を通ると、思い出したのは白い桜が咲き乱れる春。見上げてくる彼女はいつだって眩しそうに目を細めて、舞い散る桜と足元で踊る花弁を背負って笑っていた。昼寝をしていた猫は、今思えば白い猫と三毛猫だった。夏には、汗をかきながら汲んだ水を墓まで運んだ。一仕事終えた後に見上げた空には、真っ青と真っ白の二つがあって、少し視線を落とすと青々とした木々、そこからは蝉の大合唱も聴こえた。夕立の空、雲の隙間から見えた太陽は柘榴石の様に輝いていた。秋の景色には、橙と緑と茶、秋桜の桃色もあて非常に賑やかだった。あそこの芒(ススキ)も、夕方には金色(こんじき)の丘になるのだろう。冬の記憶は、雪の白さと自身の黒い外套だけかと思ったが、たしか冬牡丹が咲いていた。紅のような赤い姿は、妖艶にも可憐にも見えた。
———嗚呼、これが、幸せということか。
私の見ていた世界は、本当はこんなにも鮮やかで花めいていたのだ。それは、彼女を失ってから忘れていただけで、彼女のおかげで気付けたということに、変わりはなかたのだ。
私は、それに気づける美しさを、死んでも忘れない。そして、また彼女と巡り会えたならば、その時は———。

さて、甘味を買って帰ろう。艶々とした栗可乃子を、温かいお茶と共に。思い出させてくれた幸せを、噛み締めながら。




***

エピローグ

「千織ちゃん。冷えるよ。」
「はい、でも、見て。寅一さん。」
千織は庭先に咲いている白い彼岸花を指さした。寅一は彼女と同じように縁側に座る。
「祖父が子供の頃から、あそこに咲いているんですって。最初に、交配で出来た球根を植えて。」一際堂々と花開いている花弁に、秋赤音が止まった。羽を休めるように落ち着いたところに、優しく風が吹く。
「もう小さなお花畑みたいでしょう?」
「勝手に増えていくということかい?」
「はい。そういうことです。」
二人は、小さな花畑を見ながら、少し冷たい温度に寄り添いあった。
何処からか香る金木犀。空を踊る秋赤音。桃色になりかけた、高い夕空。冬を運ぶ、少し冷たい風。寅一はそのひとつひとつを慈しむように眺め、最後に隣の愛しい存在を見た。
「寅一さん。白い彼岸花の花言葉はね。」

———また会う日を楽しみに、思うはあなた一人
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