[慶智の王子・西園寺京の物語]ラブストーリーは一夜の過ちから始まる〜アラフォー男と三十路女の拗らせ恋愛〜
涼介が置いていった婚姻届の緑の罫線が、やけに目に刺さった。

俺は紙を見つめながら、ゆっくりと息を吐く。

――また、形で押し切ろうとしたら終わる。

だから先に、自分の側を書いた。

ペンを取る。指先に力が入る。一画ずつ、確かめるように名前を書く。字が少し歪んだ。けれど、それでいいと思った。これが今の俺だ。逃げなかった証拠だ。

ペンを置いて、すぐには顔を上げられなかった。一呼吸置いて顔を上げると、彼女が婚姻届に釘付けになっていた。

俺は婚姻届をそっと持ち上げ、彼女のほうへ差し出した。

「……君が望むなら、破ってもいい」

彼女が息を呑んだ。返事はない。

けれど、紙を受け取った瞬間――指先が小さく震えた。

頬に、ほんのり血色が戻る。

俺はペンも一緒に、彼女の手元へ置いた。

「今じゃなくていい」

声を低く落とす。

「書けないなら、それでいい。……でも、持っていてくれないか」

彼女の視線が、婚姻届から外れない。指輪の(はま)った薬指が、まだ動かない。

沈黙が続く。



俺はベッド脇に腰を下ろした。

距離は近い。けれど、触れ方を間違えたくなくて、すぐには抱き寄せない。

彼女の呼吸が、少しずつ整っていくのを待つ。やがて、彼女の肩の力がほんのわずかに抜けた。

婚姻届を胸元へ引き寄せるみたいに抱え、視線を落としたまま――小さく頷く。

それはYESでもNOでもない。けれど、俺には分かった。

「……ありがとう」

俺はそれだけ言った。

言葉を増やしたら、また壊れる気がしたから。

彼女の唇に触れたい衝動を抑え、ただ隣にいる。

彼女が選べるように。
彼女が彼女自身でいられるように。

俺は初めて、待つことを覚えた。そして初めて、待つことが怖くないと思えた。

この夜が終わっても、朝が来ても。
紙の上の名字が変わらなくても。
俺は、これからずっと彼女の隣にいる。

それだけは、もう決まっていた。



THE END
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