暁に星の花を束ねて
葵と佐竹の交際は、少しずつ前に進んでいる。
新しい温室の計画を二人でたてて。
同じごはんを食べて。
何もかも順調にみえた二人だったが─。
そんなある日。
SHT本社、研究フロア。
照明の落ち着いた廊下で、葵は資料を抱えながら足を止めていた。
「……それで、そのステラデータなんですけど」
向かいにいたのは、同じ研究部門の若い男性研究員だった。
柔らかな笑顔で、少し身を乗り出して話を聞いている。
「へぇ、そんな反応が出たんですね。さすが星野さん」
「いえ、まだ仮説段階で……でも、治療薬の研究に活かせたらって」
葵は照れたように笑った。
その声、その表情。
――それを、少し離れた場所から見ている視線があった。
佐竹だった。
書類を手にしたまま、足が止まる。
(……)
ただの業務連絡だ。
それ以上でも、それ以下でもない。
わかっている。
それでも――
葵が、あんなふうに誰かに微笑むのを。
自分以外の誰かに向けるのを。
胸の奥が、かすかにざわついた。
理由がわからず、眉を寄せる。
そのとき研究員が何か云い、葵がふっと笑った。
柔らかくて、無防備で。
あまりにも自然な笑顔だった。
胸の奥が、ちくりと痛む。
(……なんだ、これは)
自分でも驚くほど、はっきりとした感情。
――独占欲。
そんなものとは無縁だと思っていた。
彼女が誰かと笑っているだけで、胸がざわつく。
「佐竹CEO」
声をかけられ、はっとする。
「……ああ」
思わず視線を逸らした。
「用は済んだ。続けていい」
「はい?」
不思議そうに首を傾げる葵に、研究員も軽く会釈をしてその場を離れる。
二人きりになった廊下。
葵は、少し不思議そうに佐竹を見上げた。
「どうかしましたか?」
「……いや」
一瞬、言葉を探して。
「……楽しそうだったな」
「え? あ、はい。ちょっと研究の話をしてただけですけど……」
無邪気な声。
それが、胸の奥を静かに揺らす。
「……そうか」
それ以上、何も云えなかった。
こんな感情を今まで知らなかった。
(厄介だな)
そう思いながらも。
視線が自然と葵を追ってしまうことだけは、どうしても止められなかった。
その感情が、やがて限界を迎えることを――
佐竹自身、まだ知らなかった。
その夜。
皆がそれぞれの時間を過ごしている頃――。
SHT本社ではまだ明かりが残っていた。
フロアにはまだ業務の余韻が残り、照明も落としきれていない。
「そろそろ、我慢できなくなるわね」
書類を整えながら、八重樫はぽつりと呟いた。
「えっ、やっぱりですか!?」
すぐさま反応したのは結衣だった。
「だって、あれだけ一緒にいて何も起きない方が不自然でしょ」
「ですよね! あの距離感で、ですよ!?」
結衣は身振り手振りを交えて熱弁する。
「二人きりとか、もう…! 何も起きない方がおかしいです!」
八重樫は苦笑しながら、カップを口元へ運ぶ。
「起きるかどうかじゃないのよ」
「え?」
「もう起きてるのに、本人たちが気づいてないだけ」
その視線は、どこか遠く――上階を見据えていた。
「……あの人、我慢が得意すぎるのよ」
結衣は一瞬きょとんとしたあと、ぱっと顔を輝かせた。
「じゃあ……もうすぐですね!」
八重樫は答えず、ただ小さく息を吐く。
「ええ。
もう、時間の問題ね」
――同じ夜の場所では。
エントランスの喧騒を離れ、重厚な金属の扉が閉まった瞬間、密室は沈黙に支配された。
「今日も1日、終わるね」
上昇を開始したエレベーターのわずかな重力加速度が、二人の距離を物理的にも心理的にも縮めていく。
いつの間にか、視線の高さが変わっていた。
鏡面仕上げの壁に互いの姿が映る。
ほんの少しの触れれば届く、それだけの距離。
その真摯な瞳にドキッとする葵。
先に動いたのは佐竹だった。
「……葵」
彼は葵の腰をそっと引き寄せ、背後の壁へと押し込んだ。
冷たい壁の感触と、彼の胸板の熱さ。
「キスしてもいいか」
「……! は、はい……」
葵が頷くと吐息を漏らす暇もなく、少し強引で、それでいてひどく切実な唇が重なった。
閉ざされた空間の熱。
エレベーターのインジケーターが、音もなく数字を刻んでいく。
10、15、20――
葵の指先が佐竹のシャツの襟元を掴み、彼をさらに深く求めた。
息が重なるたび、彼の香水の匂いが近くなる。
「ん……っ、れん……」
「このままだと、まずいな……」
名前を呼ぶ声は、彼の唇によってすぐに塞がれる。
彼はそっと顎に触れ、角度を変えるように距離を詰めた。
逃げ場のない四角い空間で、二人の呼吸音だけが、ゆっくりと重なっていく。
佐竹の大きな手がそっと葵の髪を梳き、首筋をなぞる。
そのぬくもりに葵の膝から力が抜け、思わず彼に身を預けた。
到着の予感
35、40、45――
目的の階が近づくにつれ、電子音の予兆が二人を現実に引き戻そうとする。
しかし佐竹は離れるどころか、彼女を離すまいと静かに腕を回した。
「……戻れなくなる」
その言葉が、胸の奥で静かにひびいた。
耳元で囁かれた低音の熱に、葵は紅潮した顔を彼の胸に埋める。
無機質な音が鳴り、扉が開く。
そこには静まり返った廊下が続いていたが、二人は繋いだ手を離すことなく、どちらからともなく導かれるように、夜景の待つ最上階の部屋へと足を踏み出した。
部屋に戻った二人を包んだのは、静けさだった。
遠くの街明かりがカーテン越しに滲み、室内を淡く照らしている。
佐竹はまだ、葵の肩にそっと手を添えたままだった。
離そうと思えば、すぐ離せる距離。
けれど、どちらもその一歩を選ばない。
「……れん」
呼ばれた名に、わずかに肩が揺れる。
振り向こうとして、止まる。
葵の気配が、近すぎた。
「さっきの……」
云いかけて言葉が消える。
代わりに、指先がそっと彼の袖をつかんだ。
「……嬉しかった」
声は小さくて、でもはっきりしていた。
佐竹は一瞬、言葉を失ったままゆっくり視線を落とす。
「……そんなふうに云われて、平気でいられると思うな」
触れれば、きっと戻れなくなる。
それが怖いのに、欲しかった。
佐竹はわずかに息を整える。
その視線が、そっと逸れた。
そっと、距離が詰まる。
触れられるよりも近い。
「れん」
名前を呼ぶだけで、胸が苦しくなる。
「……おまえは」
低く、穏やかに。
「気づいてないだろうが……」
一呼吸、息を整える。
「おれをひどく、かき乱す」
その言葉に、葵の喉が小さく鳴った。
「……わたしも……」
小さく、震える声。
その瞬間、佐竹はそっと額を寄せる。
触れるか触れないかの距離で、息が混じる。
「……可愛い」
それだけで、葵の胸が鳴った。
額を合わせたまま、ほんの一瞬、目を閉じる。
言葉はいらなかった。
ただ、同じ温度を確かめるように――
静かに、静かに、夜が深まっていった。
佐竹に肩を抱かれたまま、顔を赤くさせている葵は部屋に戻ると、ある言葉を思いだした。。
「I’m crazy about you……」
ぽそりと呟いた葵。
佐竹は一瞬、言葉を失った。
ほんのわずかに目を見開き、それから、ゆっくりと息を吐く。
小さく苦笑しながら、視線を逸らす。
「そんな台詞、どこで覚えたんだ」
「映画です……。こういう時に、使うのかなって……」
恥ずかしそうに答える葵に、佐竹は思わず小さく笑った。
「……なるほど」
一歩、距離を詰める。
今度は逃げ道のないほど、静かに近い。
「だがな」
低く、落ち着いた声。
「そんな言葉を向けられて、平然としていられるほど……おれは大人じゃない」
葵がぱちっと瞬きをした、その瞬間。
そっと手を取り、親指で指先をなぞる。
「簡単に本気になる」
声は低く、でも優しい。
葵の頬がみるみる熱を帯びる。
「れ、れん……」
「映画の台詞だろ?」
少しだけ口角を上げる。
「なら、お返しだ」
そっと、額に触れるほど近づいて、囁く。
「I’m crazy about you too.」
葵は完全に固まった。
「……っ」
「そんな顔をするな」
小さく笑って、額を軽く合わせる。
「可愛い」
ふたりの距離は、もう言葉なんて必要ないほど近い。
独占欲も、戸惑いも、言葉にしきれない想いも。
すべてが静かに溶け合い、夜は静かに深まっていった。
『暁に星の花を束ねて』─後日談 同棲生活始めます篇─ 終わり


