楓 - 2013 -
10月。
宮島の赤鳥居のまわりを紅や金色の落ち葉が飾る頃。
- うちな、あんたが大好きじゃけん。
そう言って白くふっくらした頬を真っ赤に染めて、リスのような白い前歯を見せて微笑んだ少女を思い出す。

広島駅から宮島に行く方法はいくつかあるが、彼女は路面電車に好んで乗っていた。
僕はかつて彼女といっしょに乗った路面電車に今日も独り揺られている。
原爆ドームの前を通り、紙屋町を抜け、八丁堀に入る頃には、
デパートや電器屋などの大きなビルが軒を連ね、そこを抜けると、広島駅までは、素朴で小さな店が肩を寄せ合い、
橋の袂に連なる昔ながらの風景が見えて来る。
僕は広島駅の近くの小さな建設事務所のオフィスで働いている。
あの時、
- うち、女優になるんよ。
- じゃあ、僕は、小学校の先生になる。
宮島の楓の木の下でそう誓ったはずなのに、
現在、彼女は東京にいて、国民的アイドルグループの一員になっていた -

「うちの息子達も好きですよ。何て言ったっけ。あの大人数のアイドルグループ」
その日、社員が集まる飲み会があった。八丁堀にある小さな居酒屋の和室の個室で行われた、遅過ぎる暑気払いだった。
「何てったっけ。俺、興味ないわぁ」
「でも、可愛い子がおるみたいよ」
僕は、
黙って小ジョッキの生ビールをすすり、季節はずれの枝豆をつまみ、カンパチの刺身を食った。
「広島出身の子がおるらしいよ。知っちょる?」
(!!)
女の子のひとりがそう言って、僕は思わず箸を止めた。

「広島出身の子がおるの。名前何?」
「私、センターメンバーの5、6人しか名前知りませんけど」
「何? 6人以上おるグループなん? そりゃ、おっさんには覚えられんわ」
「あはは」
久しぶりに観た彼女の顔は動画サイトの粗雑な光で歪曲され、
「なぁ、あんた知っとる?」
「……興味ないです」
大きくて愛らしかった目が、不自然な丸さになり、鼻もすっと細くなっていた。

生まれた時から彼女は愛らしい赤ん坊だったと言う。
それは彼女が見せてくれた写真からも十分にわかった。
僕と彼女はいわゆる幼なじみと言うやつで、近所に住んでいた14年間、親しく付き合っていた。
彼女は女性にしては少し大きな身長とすらりとした身体つきで、何より濃く黒い睫毛に彩られた大きな黒い目が印象的なはつらつとした少女だった。
引き換え僕は本ばかりを読む、いささか陰気な少年時代を送っていたのだが、何故か彼女はいつも僕と遊びたがった。
彼女は地元の劇団に所属していて、土曜日はいつもレッスンがあったけれど、練習が終わったあと、必ず僕の部屋を訪れた。
- おおロミオ。あなたはどうしてロミオなの。
劇団で覚えたセリフを僕のシングルベッドの上に立って、大声で繰り返すのだった。
僕はそのうるささに耐えきれず本を投げ出し、それを見て彼女は満足そうに微笑み、僕の手を取って外に出た。
瀬戸内海へ沈むのだろう夕日が丘の上で、赤い大きなまんまるになる頃、
彼女は僕と手を繋いで、いつまでもいつまでもその夕焼けを見つめつづけ、僕は彼女を見ていた。

彼女とは宮島へも、良く訪れた。

広島駅から宮島に行く方法は3つ程ほどある。
山陽本線に乗って、宮島口からフェリーと言うルートと、路面電車で宮島口に行くルート、それに広島港から瀬戸内海汽船に乗る方法もあった。
本当はもうひとつあって、平和記念公園の近くの元安川(もとやすがわ)から遊覧船に乗る方法もある。
遊覧船と呼ぶにはささやかな船だったが、彼女はそのルートも好んでいた。
彼女と路面電車に揺られ、広島の街をゆっくりと進む。
路面電車はまるで地の底を這うような振動が腹に響いてくる。
駅がたくさんあり、道路を走るため、良く停車した。
彼女は広島が田舎だと良くこぼしていたけれど、僕は60年前に起こった悲劇と混沌から観光地へと復興を遂げたこの街の力強さが好きだった。素朴さが好きだった。

宮島口からフェリーに乗って10分で宮島に着く。
それから僕たちは海に沿った道を歩いて、厳島神社へと向かった。
堤防の上をみずみずしい晴れの光を浴びながら歩いたり、砂の上をはしゃぎながら歩いたりした。
- 楓の匂いがする。
神社に行くと決まって彼女はそう言った。
- せんよ。
僕がそう言うと彼女は、決まって怒って反論した。
- だってするもん! メイプルシロップの匂いじゃ!
実際はメイプルシロップを作る楓は『サトウカエデ』と言う別の種類であることを、僕はのちに図書館で知った。
しかし、彼女は神社に続く森を通る時、必ずそう言った。
今、思えば、
彼女が感じていたのは、思春期に差しかかった少女の恋心の薫りであり、女性より成長の遅い男性の僕にはまだ感じられなかった薫りであり、
今、
僕がこうして独りで神社へ向かう道を歩いていると、やはり何処かからほんのりと甘く切ない薫りがするような気がするのだった。
それは、
離れてしまって彼女の全てを今更肯定したくなったと言う、
無残に散った恋心なのかもしれない -

彼女の熱愛報道がされたのは、
例の飲み会から数日後だった。
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