触れた手から始まる恋

第一章:晴れた日の朝、コーヒーを片手に

 目覚まし時計の電子音が、六時三十分ちょうどに静かな部屋に鳴り響いた。堀田愛奈は、目を開けた瞬間に、窓の外に広がる空の色にほっと胸をなでおろした。春にしてはまだ肌寒い日もあるけれど、今日は晴れている。雲ひとつない青空。思わず、気分も軽くなる。
 木の香りがほんのりと残るナチュラルウッドの床に足を下ろし、ベッドから立ち上がると、彼女はキッチンへと向かった。愛用のケトルに水を注ぎ、火をつける。その間に、豆を挽く。彼女の朝のルーティン。それは、完璧な一杯のコーヒーを丁寧に淹れることから始まる。
 豆は、中煎りのエチオピア。軽やかな酸味とフローラルな香りが特徴で、朝の目覚めにはぴったり。手動のミルを使って、ガリガリと音を立てながら豆を挽いていく時間が、彼女にとっては小さな瞑想だった。ひとりの時間。無言の静けさ。誰にも邪魔されない、自分だけの世界。
 お湯が沸き、ドリッパーに紙フィルターをセットしてから、粉を均等にならすように丁寧に入れる。蒸らしのお湯を少し注ぐと、ふわりと香りが立ち上った。それはまるで、今日という一日の始まりを告げる合図のように感じられた。
 リビングの大きな窓からは朝の陽光が差し込み、観葉植物の葉に淡く光が反射している。深緑と柔らかなベージュのソファ。棚に並ぶお気に入りの本。控えめに揺れるカーテン。そのすべてが、彼女の心を落ち着かせた。
 カップを片手に、愛奈はそのソファに腰を下ろした。スカートのすそがふわりと広がり、軽く足を組む。スマートフォンの通知は、まだ見ない。今日は一息ついてから。
 「ん〜……やっぱりこの豆、好き」
 ひとり言を漏らしながら、愛奈は一口コーヒーを含んだ。まるで舌の上で花が咲くような香り。そして後味にはかすかな甘さ。ゆっくりと目を閉じると、仕事で溜まった疲れや些細な悩みが、ふわりと遠のいていく気がした。
 だが、それも長くは続かない。
 スマートフォンがふるふると震え、着信画面が表示される。社内チャットからの通知。「加藤亮祐(新しい上司)」の名前が浮かんでいた。
 「……はや。まだ七時台だよ?」
 眉をひそめつつも、通知を開く。どうやら資料に関する質問らしい。愛奈は一瞬迷ったが、返信はせずにスマホを伏せた。今はまだ、朝の時間。仕事モードに入るのは、もう少し後でもいい。
 支度を済ませて、彼女が家を出たのは八時過ぎ。駅へ向かう道は、桜並木が連なる通学路。春休み中で子供の姿は少ないが、ほんのりと甘い香りが風に混じって漂ってくる。スーツ姿のサラリーマンたちが歩きながらスマホを見ている。そんな風景にも、愛奈はすっかり慣れていた。
 「カフェ、寄っていこ」
 彼女が足を向けたのは、駅前の小さなカフェだった。『青い月』というそのカフェは、愛奈にとって第二のリビングのような場所。いつもの窓際の席が空いているのを確認し、ほっと息をついた。
 カウンターの奥から顔を出したバリスタの女性が、軽く手を振ってくる。
 「おはようございます、ホリタさん。いつもの?」
 「うん、お願いします」
 「今日はいい天気ですね。あ、でも午後から少し雲が出るみたいですよ」
 「じゃあ、午前中に頭使っといたほうがいいかもね」
 そんなたわいのない会話を交わしながら、席に座る。窓の外には、行き交う人々と、満開に近い桜。ふとした瞬間、窓に映る自分の顔と目が合った。やや眠そうな目元。癖のつきやすい髪。どこか整っているけど、特別じゃない。そんな自分に、少しだけ苦笑いを浮かべた。
 コーヒーが運ばれてくると、彼女はノートPCを広げた。社内共有フォルダにある資料に目を通しながら、今日の業務内容を頭の中で整理していく。
 だが、そんな穏やかな時間を破るように、入り口のドアが派手な音を立てて開いた。
 「……あれ? ホリタさん?」
 顔を上げると、そこには少し汗ばんだ顔の男が立っていた。スーツのジャケットの前が乱れていて、ネクタイが微妙に曲がっている。額にはうっすらと汗。どこか初々しいその表情。そう、彼が、新しい上司――加藤亮祐だった。
 愛奈は思わず、笑ってしまった。
 「……加藤さん、なんでそんなに慌ててるんですか?」
 亮祐は、彼女の問いに「いや、あの……資料の件で気になるところがあって、それで……ここ、使ってるって聞いてたから……」と、焦ったように答えた。
 その口調の、なんとも不器用な感じ。丁寧であろうとしつつも、言葉が追いついていない。そんな亮祐に、愛奈はどこか親しみを覚えた。
 「ふふ、なんか、ちょっと抜けてますよね。加藤さんって」
 「えっ、そ、そうですか? いや、よく言われるんですけど……」
 顔を赤らめる亮祐。愛奈は、彼のそんな表情に、少しだけ興味が湧いた。
 「……で、コーヒー、頼みました? ここ、ちょっとクセあるから、好み分かれますよ」
 「そうなんですか? えーと、じゃあ……おすすめは?」
 「中煎りのブレンド。あ、でも加藤さん、もしかして、コンビニ派?」
 「え、バレました?」
 会話は自然に流れた。ふたりの間にある、まだぎこちない距離感。でも、それが逆に心地よくて、愛奈は不思議と笑顔がこぼれていた。
 コーヒーを待つ間、パソコンの画面を覗き込む亮祐の眉がピクリと動いた。
 「……この資料、ホリタさんが?」
 「うん。見やすいって褒めてくれてもいいですよ」
 「いや、ほんとに。視点が違う。……なるほどな。自分だけじゃ、こういう切り口出なかったかも」
 真剣に資料を読む亮祐の横顔は、先ほどの抜けた印象とはまったく違った。愛奈は、一瞬だけ、どきりとした。
 (この人、空回りするけど……根は、ちゃんと考えてるんだ)
 そして彼女の中に、ほんの少し、期待の芽のようなものが芽生えた。職場での新しい関係性。それが、ただの上司と部下だけで終わるのか、それとも――
 彼の手が、不意に彼女のカップの縁に触れた。あ、と声を漏らしかけた瞬間、視線が合った。互いに少しだけ目を見開いて、何も言わずにそらす。
 触れた手は、あたたかかった。



 一瞬だけ触れた指先は、驚くほどあたたかかった。カップの縁にそっと重なる形で、ほんの数秒。誰も意図したわけではなく、避ける隙もない、偶然の接触。でも、それがなぜか、やけに印象に残る。
 「あっ、ご、ごめんなさい」
 亮祐が急いで手を引っ込め、眉を下げた顔で謝る。その動作も声も、まるで高校生のようにぎこちなくて、愛奈は思わず目を細めた。
 「気にしなくて大丈夫ですよ。熱かったわけでもないし」
 言葉ではそう言いながらも、心の中では、その温度の余韻がまだじんわりと残っていた。
 亮祐はしばらく黙ったあと、小さくうなずいた。
 「……すみません。僕、こういうの慣れてなくて」
 「こういうのって?」
 「えっと……女性と、こうして、カフェで話すとか。プライベートっぽい場所で仕事の話とか。なんか、変じゃないですか? ほら、僕、もうちょっとちゃんとしてるつもりだったんですけど……」
 言えば言うほど泥沼にはまっていくような説明に、愛奈は堪えきれずに笑いを漏らした。口元に手を当てながら、声を押し殺す。
 「……ごめんなさい、加藤さん。別に笑ったつもりじゃないんですけど。なんか、想像と違ったというか」
 「想像……?」
 「うん。もっと、こう……“完璧です”ってタイプかと思ってたから。なんでも先回りして、細かいところまで指示してきて、私たちが追い付かない、みたいな。けど、全然違ったから」
 亮祐は少し驚いた顔をしたあと、苦笑した。
 「いや、それは完全に誤解です。むしろ僕、要領悪くて。いつも焦ってばかりで……だからこそ、ちゃんとやろうとすると、空回りするんですよね。ホリタさんみたいに、自然にこなせる人が羨ましいです」
 その言葉に、愛奈は一瞬だけ眉をひそめた。自然にこなす。よく言われる言葉。けれど、それは果たして本当に「できている」という意味なのだろうか? 失敗しないように、波風を立てないように、ただただ器用に生きてきただけじゃないか。そんな自問が、心のどこかでざわりと動いた。
 「……自然、か。なんかそれって、あんまり本気でやってないって意味にも聞こえますね」
 ふいに漏れた言葉に、亮祐は驚いたように目を見開いた。
 「え? いや、そんなつもりじゃ――」
 「わかってます。ごめんなさい、ちょっと言いすぎた。たぶん、私の方が引っかかってるんです。自分が何に向いてるのか、わからないままここまで来ちゃって」
 コーヒーに視線を落としながら、カップを指先で回す。表面に映る自分の顔は、どこかぼんやりしていた。
 亮祐はしばらく黙っていたが、ふと静かに言葉を返した。
 「僕、異動してきて、まだ日が浅いんですけど。今までの職場では、何かに本気になっても、それが間違ってたらすごく怒られて、結局うまくいかないことばっかりで。でも、そうやって失敗しながらじゃないと、自分に何ができるかって、わからないんですよね」
 その声は決して大きくなかったけれど、どこか芯のある響きだった。
 愛奈はゆっくりと顔を上げ、彼の目を見た。焦りやすくて、少し抜けていて、不器用。でも、まっすぐに自分の中にあるものを言葉にできる人。
 そんな彼の姿に、心のどこかが、そっと震えた。
 「……加藤さん」
 「はい」
 「今度のプロジェクト、私、ちゃんと関わってみたいです。誰かの補佐とかじゃなくて、自分の意見も言って、やってみたい」
 亮祐の目がわずかに丸くなり、それから笑った。
 「それ、すごく心強いです。じゃあ……一緒に、やってみましょうか」
 テーブル越しに差し出された手。その手には、さっき触れたときと同じ、ほんのりとした温もりがあった。
 ふと、店内のスピーカーから静かに流れてきた音楽。どこか懐かしい洋楽のピアノバラードが、タイミングよくその瞬間を彩っていた。
 窓の外の桜が、風にそよいで、はらりと花びらを落とした。その一枚が、偶然にも窓ガラスに貼りつくように舞い降りてくる。
 そんな情景の中で、ふたりの新しい「仕事の朝」が始まった。
 出勤の時間が迫り、ふたりは席を立った。カフェの外に出ると、空はますます澄んでいて、駅までの道を歩く足取りは、なぜか今までよりも軽かった。
 「……そういえば、さっきの豆、なんでしたっけ?」
 亮祐のふとした問いかけに、愛奈はふっと笑って答える。
 「エチオピア。中煎り。少しだけ、甘い花の香りがするやつ」
 「へえ……なんか、今朝の空気に似てるかも」
 「そう思うなら、明日も飲みに来ればいいじゃないですか。……同じ時間に」
 言ってから、自分でも驚くほど自然だったことに気づき、愛奈は少しだけ頬を赤らめた。だが亮祐は気づいたふうもなく、「じゃあ、来ます」と真面目な顔で頷いた。
 愛奈はその顔に吹き出しそうになりながら、小さく首を振った。
 ほんの少しずつ、世界が変わっていく。
 それはまだ、始まったばかりの、春の朝のことだった。
 【第一章:晴れた日の朝、コーヒーを片手に】(終)
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