触れた手から始まる恋
第二章:友達と久しぶりの再会で「変わってないね!」
昼休み、社食の窓際で食べていたハンバーグ定食のフォークを置いた瞬間、スマホが震えた。画面には一件のメッセージが浮かんでいる。「久しぶり。今週末、空いてる? 会いたいな」送信者の名前を見た瞬間、愛奈の表情がゆるんだ。
春薫。その名前は、大学時代の思い出を一気に引き寄せる。共に広告研究会でイベントを仕切ったり、深夜のコンビニでカップラーメンを啜ったり、意味もなく将来について語り合ったり。社会に出てからは会う機会も減ったが、メッセージ一通であの頃の空気が鮮やかに蘇るのだから、友情というものは不思議だ。
「週末、大丈夫だよ。久しぶりに会おう!」
すぐに返信を送りながら、ふと窓の外に目をやった。校舎のような建物の間を通る風に、どこか春の気配があった。心なしか、カフェでの出来事があってから、景色が柔らかく見える気がする。
週末、待ち合わせは渋谷の小さなビストロだった。大学近くの古本屋で偶然見つけたという隠れ家的なお店。春薫はそういう店を見つけるのが得意だった。久しぶりに降り立った渋谷の街は、人混みのざわめきさえ懐かしい。
午後五時、まだ少し明るい空の下、角を曲がった先のビルの一階。入り口に小さな看板があり、「Bonheur(ボヌール)」と控えめな文字で店名が刻まれていた。ドアを開けると、ウッドとグリーンを基調とした温かい空間が広がり、カラン、と鈴の音が耳に心地よく響いた。
「愛奈!」
振り返ったその声に、反射的に笑顔がこぼれた。テーブル席で手を振っていたのは、昔と変わらぬ大きな目と、真っ直ぐな前髪の春薫。だが、服のセンスも表情の落ち着きも、明らかに大人びていて、その中にある変わらなさが余計に胸に響いた。
「変わってないね!」
二人同時に言葉が重なり、思わず顔を見合わせて笑った。昔と変わらないじゃれ合いのような空気が、数年のブランクを一瞬で埋めていく。席につくと、赤ワインとチーズの盛り合わせが出され、軽くグラスを合わせた。
「あなたこそ、全然変わってない。っていうか、変わってないようで、ちょっと綺麗になった?」
「何それ、うれしいけど胡散臭い」
「いやいや、素直な感想。あたしの見る目があるってことよ」
春薫の笑い声に、愛奈は安心して自分の肩の力が抜けていくのを感じた。職場では見せないような表情が、自然に出る。
「最近どう? 仕事は?」
「うん、まあ……そこそこ。新しい上司が来て、なんかちょっと風向きが変わってきた感じ」
「え、何それ。上司イケメンとか?」
「……んー、イケメンっていうか、真面目でちょっと抜けてる感じ? でもね、なんか……まっすぐで、ちょっとずつ、ちゃんとしたいって思えるようになってきたかも」
グラスの縁を指でなぞりながら、愛奈は無意識に表情を柔らかくしていた。その変化に、春薫はすぐ気づいたようで、ニヤリと口角を上げる。
「へー。そっちの方向、久しぶりに聞いたな。その顔、なんか、恋してる?」
「えっ、な、なにそれ」
「昔からそうだったじゃん。あんた、好きな人ができると、頑張れる子になるの」
その一言が、ぐっと胸に刺さる。好き……なのかどうかは、まだわからない。でも、あの人の存在が、自分の中に新しい風を吹き込んでいるのは事実だった。
「春薫は? 今、彼氏とかいるの?」
ワインを一口飲んでから、愛奈が聞くと、春薫は少しだけ目を伏せた。
「いたよ。去年まで。でも、別れた」
「え……そうなんだ」
「うん。夢を追って、転職して、仕事ばっかりして……ってやってるうちに、向こうの存在が、自分の中でどんどん“日常”じゃなくなっていって……。寂しさに気づいたときには、もう遅かった。向こうが“話がある”って言ったとき、ああ終わるなって、すぐわかった」
言葉は淡々としていたが、グラスを持つ手がほんの少し震えていた。
「……後悔、してる?」
「してないって言ったら、嘘かな。でもね、あのとき本気でやりたかったことに挑戦したことも、ちゃんと自分の一部になってる。それだけは確か。だから……愛奈も、もし今、何かに向かってみたいって思えるなら、絶対その気持ち、大事にして」
胸の奥に、小さく灯がともるような感覚。それは温かいのに、どこか切ない。
店内のライトが少し暗くなり、夜の気配が深まっていく。テーブルに置かれた料理も、話題も、次第にゆるやかに流れていったが、愛奈の心の中には、ひとつの輪郭がくっきりと残っていた。
本気でやってみたい――その言葉が、何度も頭の中で反芻される。仕事に対して、自分の立ち位置に対して、そして、亮祐に対して。
(私も、やってみたい。何かを)
ふたりで笑いながら店を出た帰り道。渋谷の夜は、ネオンがあちこちで瞬いていたけれど、心に一番強く残ったのは、春薫の言葉だった。
夢を追うということ。誰かと生きるということ。その両方を本気で選ぶということ。それが、どれだけ難しくて、どれだけ尊いことなのか。
自宅に戻り、ひとりになった部屋で、愛奈はソファに座ったまま、スマホを手にとった。開いた画面には、仕事用チャットが残っている。亮祐からの、あの素っ気なくも丁寧な文面。その文字に、何度も視線が行ったり来たりする。
(ちゃんと、伝えられるようになりたいな)
仕事のことも、自分のことも、そして、少しずつ膨らんでいく気持ちのことも。
月明かりが部屋の片隅に射し込んでいた。その光に照らされたコーヒーカップの影が、やけにくっきりとしているように見えた。
翌朝、目が覚めた愛奈は、ベッドに寝転んだまま、天井を見つめていた。週末の空は曇っていたが、その淡いグレーの空にさえ、昨日の春薫の言葉がやけにくっきりと響いてくる気がした。夢を追った結果、恋人を失った――その声の奥に滲んでいた、静かな痛み。そして、それでも前を向こうとする彼女の目。あの目が、忘れられない。
(私、本気で何かに向き合ったことって……あったかな)
大手広告代理店で働いて六年。愛奈は器用に立ち回ってきたつもりだった。部署異動も何度か経験し、どこでもうまくやってきた。怒られないように、嫌われないように、求められている役割を敏感に読み取り、こなしてきた。でも、何かを「やりたい」と叫んだことは、一度もなかった気がする。だからこそ、亮祐のあの不器用さが、まぶしく見えるのだ。
何かを成し遂げようとする人。自分の不完全さを恐れず、正面からぶつかろうとする人。愛奈は、自分の中に湧きあがるその尊敬と、得体の知れない感情の混ざったものを、そっと胸の奥に押し込んだ。
月曜日。会社のエントランスを抜けた瞬間、顔を上げた愛奈は、まっすぐに前を歩く亮祐の姿を見つけた。彼はいつものように少し早足で、手に持つファイルが不自然に傾いている。何かを考え込んでいるような表情。声をかけようか迷ったが、彼はすぐにエレベーターに乗り込んでしまった。
オフィスに入ると、すでに彼は自席に座っていて、モニターに向かって何かを打ち込んでいる。その背中を、愛奈はしばらく見つめた。肩のあたりが少しこわばっているように見える。もしかして、また何か悩んでる?
「加藤さん」
声をかけると、彼はびくりと肩を動かし、振り返った。
「あ、堀田さん……おはようございます」
「何かあったんですか? すごい顔してたから」
「え、そうでした? ……あー、ちょっと、企画案で悩んでて。これ、今日の午後の会議で出すつもりなんですけど、どうしてもピンと来なくて」
「見せてもらってもいいですか?」
彼が差し出した資料を、愛奈は慎重に受け取る。まだ下書き段階のようだが、内容は丁寧に組み立てられていて、要点もはっきりしていた。ただ、それが“強く伝わってこない”のも事実だった。
「これ、きっと『正解』を狙いすぎてるんだと思います。安心感はあるけど、印象に残らない。加藤さんが一番伝えたいのって、どこですか?」
「……“選ばれる理由”です。他社じゃなくて、うちを選んでもらえるような、決定打が欲しくて。でも、数字やスペックじゃ勝てないから、どうしても抽象的になってしまって」
愛奈はしばらく考えてから、ひとつのページに指を置いた。
「このエピソード、もっと膨らませられませんか? 以前の顧客とのやり取り。ここに、人が惹かれる“感情”がある気がします」
「感情……」
「はい。私、最近ある人に言われたんです。“本気でやった結果が失敗でも、それは絶対自分の一部になる”って。そのとき、感情って、残るんだなって思ったんです」
思わず口にした言葉に、亮祐がふっと目を細めた。
「それ……すごくいいですね。その考え方」
「そうかな……私、もっと知りたいです。加藤さんが本当に伝えたいこと」
その瞬間、ふたりの間にある空気が、確かに変わった。ビジネスライクなやり取りではなく、心を交わすような感覚。彼の目が、いつもよりまっすぐに、愛奈を捉えていた。
午後の会議で、その修正された案は、意外なほど高評価を得た。「誰の言葉?」と聞かれたとき、亮祐は一瞬だけ愛奈を見て、小さく笑って言った。
「自分だけじゃ見えなかった視点を、教えてもらいました」
会議後、エレベーターホールでふたりきりになった瞬間、愛奈はふと口を開いた。
「……加藤さん」
「はい」
「私、本気でやってみたいです。この仕事も、自分の気持ちも。……変わってみたいって、最近思えるようになってきました」
彼は驚いたように目を見開いたが、すぐに表情を和らげた。
「それ、僕も同じです。あなたと組めてよかった」
その言葉が、胸に深く染み込んだ。まるで、春薫がくれた火種が、彼の言葉で一気に灯に変わったような感覚。
夜、帰りの電車の中。窓に映る自分の顔は、どこか前よりはっきりと輪郭が見えていた。少しずつでもいい。変わっていきたい。誰かの“補佐”ではなく、自分自身の言葉で前に進みたい。
スマホを取り出し、春薫に短いメッセージを送った。「ありがとう。あの夜、会えて本当によかった。私、前に進んでみる」
送信を押したあと、バッグにしまいながら、ふと視線を落とすと、手の甲にほんのりと残る朱色のペンの跡。会議で急いでメモしたときのインクの跡。何気ないその跡にさえ、自分が「関わった証」が残っているように思えて、心があたたかくなる。
触れた手の温もりは、時に言葉よりも深く、想いを届けてくれる。
彼の手の中に、これから何を感じられるのか。それはまだわからない。でも、知ってみたいと思う自分が、確かにここにいる。
【第二章:友達と久しぶりの再会で「変わってないね!」】(終)
春薫。その名前は、大学時代の思い出を一気に引き寄せる。共に広告研究会でイベントを仕切ったり、深夜のコンビニでカップラーメンを啜ったり、意味もなく将来について語り合ったり。社会に出てからは会う機会も減ったが、メッセージ一通であの頃の空気が鮮やかに蘇るのだから、友情というものは不思議だ。
「週末、大丈夫だよ。久しぶりに会おう!」
すぐに返信を送りながら、ふと窓の外に目をやった。校舎のような建物の間を通る風に、どこか春の気配があった。心なしか、カフェでの出来事があってから、景色が柔らかく見える気がする。
週末、待ち合わせは渋谷の小さなビストロだった。大学近くの古本屋で偶然見つけたという隠れ家的なお店。春薫はそういう店を見つけるのが得意だった。久しぶりに降り立った渋谷の街は、人混みのざわめきさえ懐かしい。
午後五時、まだ少し明るい空の下、角を曲がった先のビルの一階。入り口に小さな看板があり、「Bonheur(ボヌール)」と控えめな文字で店名が刻まれていた。ドアを開けると、ウッドとグリーンを基調とした温かい空間が広がり、カラン、と鈴の音が耳に心地よく響いた。
「愛奈!」
振り返ったその声に、反射的に笑顔がこぼれた。テーブル席で手を振っていたのは、昔と変わらぬ大きな目と、真っ直ぐな前髪の春薫。だが、服のセンスも表情の落ち着きも、明らかに大人びていて、その中にある変わらなさが余計に胸に響いた。
「変わってないね!」
二人同時に言葉が重なり、思わず顔を見合わせて笑った。昔と変わらないじゃれ合いのような空気が、数年のブランクを一瞬で埋めていく。席につくと、赤ワインとチーズの盛り合わせが出され、軽くグラスを合わせた。
「あなたこそ、全然変わってない。っていうか、変わってないようで、ちょっと綺麗になった?」
「何それ、うれしいけど胡散臭い」
「いやいや、素直な感想。あたしの見る目があるってことよ」
春薫の笑い声に、愛奈は安心して自分の肩の力が抜けていくのを感じた。職場では見せないような表情が、自然に出る。
「最近どう? 仕事は?」
「うん、まあ……そこそこ。新しい上司が来て、なんかちょっと風向きが変わってきた感じ」
「え、何それ。上司イケメンとか?」
「……んー、イケメンっていうか、真面目でちょっと抜けてる感じ? でもね、なんか……まっすぐで、ちょっとずつ、ちゃんとしたいって思えるようになってきたかも」
グラスの縁を指でなぞりながら、愛奈は無意識に表情を柔らかくしていた。その変化に、春薫はすぐ気づいたようで、ニヤリと口角を上げる。
「へー。そっちの方向、久しぶりに聞いたな。その顔、なんか、恋してる?」
「えっ、な、なにそれ」
「昔からそうだったじゃん。あんた、好きな人ができると、頑張れる子になるの」
その一言が、ぐっと胸に刺さる。好き……なのかどうかは、まだわからない。でも、あの人の存在が、自分の中に新しい風を吹き込んでいるのは事実だった。
「春薫は? 今、彼氏とかいるの?」
ワインを一口飲んでから、愛奈が聞くと、春薫は少しだけ目を伏せた。
「いたよ。去年まで。でも、別れた」
「え……そうなんだ」
「うん。夢を追って、転職して、仕事ばっかりして……ってやってるうちに、向こうの存在が、自分の中でどんどん“日常”じゃなくなっていって……。寂しさに気づいたときには、もう遅かった。向こうが“話がある”って言ったとき、ああ終わるなって、すぐわかった」
言葉は淡々としていたが、グラスを持つ手がほんの少し震えていた。
「……後悔、してる?」
「してないって言ったら、嘘かな。でもね、あのとき本気でやりたかったことに挑戦したことも、ちゃんと自分の一部になってる。それだけは確か。だから……愛奈も、もし今、何かに向かってみたいって思えるなら、絶対その気持ち、大事にして」
胸の奥に、小さく灯がともるような感覚。それは温かいのに、どこか切ない。
店内のライトが少し暗くなり、夜の気配が深まっていく。テーブルに置かれた料理も、話題も、次第にゆるやかに流れていったが、愛奈の心の中には、ひとつの輪郭がくっきりと残っていた。
本気でやってみたい――その言葉が、何度も頭の中で反芻される。仕事に対して、自分の立ち位置に対して、そして、亮祐に対して。
(私も、やってみたい。何かを)
ふたりで笑いながら店を出た帰り道。渋谷の夜は、ネオンがあちこちで瞬いていたけれど、心に一番強く残ったのは、春薫の言葉だった。
夢を追うということ。誰かと生きるということ。その両方を本気で選ぶということ。それが、どれだけ難しくて、どれだけ尊いことなのか。
自宅に戻り、ひとりになった部屋で、愛奈はソファに座ったまま、スマホを手にとった。開いた画面には、仕事用チャットが残っている。亮祐からの、あの素っ気なくも丁寧な文面。その文字に、何度も視線が行ったり来たりする。
(ちゃんと、伝えられるようになりたいな)
仕事のことも、自分のことも、そして、少しずつ膨らんでいく気持ちのことも。
月明かりが部屋の片隅に射し込んでいた。その光に照らされたコーヒーカップの影が、やけにくっきりとしているように見えた。
翌朝、目が覚めた愛奈は、ベッドに寝転んだまま、天井を見つめていた。週末の空は曇っていたが、その淡いグレーの空にさえ、昨日の春薫の言葉がやけにくっきりと響いてくる気がした。夢を追った結果、恋人を失った――その声の奥に滲んでいた、静かな痛み。そして、それでも前を向こうとする彼女の目。あの目が、忘れられない。
(私、本気で何かに向き合ったことって……あったかな)
大手広告代理店で働いて六年。愛奈は器用に立ち回ってきたつもりだった。部署異動も何度か経験し、どこでもうまくやってきた。怒られないように、嫌われないように、求められている役割を敏感に読み取り、こなしてきた。でも、何かを「やりたい」と叫んだことは、一度もなかった気がする。だからこそ、亮祐のあの不器用さが、まぶしく見えるのだ。
何かを成し遂げようとする人。自分の不完全さを恐れず、正面からぶつかろうとする人。愛奈は、自分の中に湧きあがるその尊敬と、得体の知れない感情の混ざったものを、そっと胸の奥に押し込んだ。
月曜日。会社のエントランスを抜けた瞬間、顔を上げた愛奈は、まっすぐに前を歩く亮祐の姿を見つけた。彼はいつものように少し早足で、手に持つファイルが不自然に傾いている。何かを考え込んでいるような表情。声をかけようか迷ったが、彼はすぐにエレベーターに乗り込んでしまった。
オフィスに入ると、すでに彼は自席に座っていて、モニターに向かって何かを打ち込んでいる。その背中を、愛奈はしばらく見つめた。肩のあたりが少しこわばっているように見える。もしかして、また何か悩んでる?
「加藤さん」
声をかけると、彼はびくりと肩を動かし、振り返った。
「あ、堀田さん……おはようございます」
「何かあったんですか? すごい顔してたから」
「え、そうでした? ……あー、ちょっと、企画案で悩んでて。これ、今日の午後の会議で出すつもりなんですけど、どうしてもピンと来なくて」
「見せてもらってもいいですか?」
彼が差し出した資料を、愛奈は慎重に受け取る。まだ下書き段階のようだが、内容は丁寧に組み立てられていて、要点もはっきりしていた。ただ、それが“強く伝わってこない”のも事実だった。
「これ、きっと『正解』を狙いすぎてるんだと思います。安心感はあるけど、印象に残らない。加藤さんが一番伝えたいのって、どこですか?」
「……“選ばれる理由”です。他社じゃなくて、うちを選んでもらえるような、決定打が欲しくて。でも、数字やスペックじゃ勝てないから、どうしても抽象的になってしまって」
愛奈はしばらく考えてから、ひとつのページに指を置いた。
「このエピソード、もっと膨らませられませんか? 以前の顧客とのやり取り。ここに、人が惹かれる“感情”がある気がします」
「感情……」
「はい。私、最近ある人に言われたんです。“本気でやった結果が失敗でも、それは絶対自分の一部になる”って。そのとき、感情って、残るんだなって思ったんです」
思わず口にした言葉に、亮祐がふっと目を細めた。
「それ……すごくいいですね。その考え方」
「そうかな……私、もっと知りたいです。加藤さんが本当に伝えたいこと」
その瞬間、ふたりの間にある空気が、確かに変わった。ビジネスライクなやり取りではなく、心を交わすような感覚。彼の目が、いつもよりまっすぐに、愛奈を捉えていた。
午後の会議で、その修正された案は、意外なほど高評価を得た。「誰の言葉?」と聞かれたとき、亮祐は一瞬だけ愛奈を見て、小さく笑って言った。
「自分だけじゃ見えなかった視点を、教えてもらいました」
会議後、エレベーターホールでふたりきりになった瞬間、愛奈はふと口を開いた。
「……加藤さん」
「はい」
「私、本気でやってみたいです。この仕事も、自分の気持ちも。……変わってみたいって、最近思えるようになってきました」
彼は驚いたように目を見開いたが、すぐに表情を和らげた。
「それ、僕も同じです。あなたと組めてよかった」
その言葉が、胸に深く染み込んだ。まるで、春薫がくれた火種が、彼の言葉で一気に灯に変わったような感覚。
夜、帰りの電車の中。窓に映る自分の顔は、どこか前よりはっきりと輪郭が見えていた。少しずつでもいい。変わっていきたい。誰かの“補佐”ではなく、自分自身の言葉で前に進みたい。
スマホを取り出し、春薫に短いメッセージを送った。「ありがとう。あの夜、会えて本当によかった。私、前に進んでみる」
送信を押したあと、バッグにしまいながら、ふと視線を落とすと、手の甲にほんのりと残る朱色のペンの跡。会議で急いでメモしたときのインクの跡。何気ないその跡にさえ、自分が「関わった証」が残っているように思えて、心があたたかくなる。
触れた手の温もりは、時に言葉よりも深く、想いを届けてくれる。
彼の手の中に、これから何を感じられるのか。それはまだわからない。でも、知ってみたいと思う自分が、確かにここにいる。
【第二章:友達と久しぶりの再会で「変わってないね!」】(終)