触れた手から始まる恋
第十五章:最後の出張先で再会
春風がまだ冷たさを含む四月の終わり。堀田愛奈は、成田空港の出発ゲートに立っていた。手にはキャリーケース、肩にはノートパソコンの入ったトートバッグ。ビジネスライクな黒のパンツスーツに身を包み、けれど心の内側では、少女のように胸を高鳴らせていた。
今回の出張は、海外クライアントとの重要な契約交渉のため。愛奈にとって初めての本格的な海外出張だった。期待と緊張、そしてほんの少しの不安を抱えながら、それでも心の奥底には、別の感情があった。
──向こうで、きっと彼に会える。
誰にも言っていない。亮祐にも、自分がニューヨークに向かうことは伝えていなかった。それなのに、不思議と確信していた。何かに導かれるように、またあの温もりにたどり着けると。
十数時間のフライトを経て、ニューヨーク・JFK空港に到着したとき、愛奈はぐったりと疲れていた。けれど、目に映るすべてが新鮮で、心が躍った。空港からホテルまでのタクシーの窓越しに見るマンハッタンの街並みは、テレビで見るよりもずっと生き生きとしていて、灰色のビル群でさえどこか輝いて見えた。
宿泊先のホテルは、ビジネス街の中心にある中規模ホテルだった。部屋に入ると、大きな窓からはセントラルパークの端がちらりと見えた。
スーツケースをベッドに置き、愛奈はカーテンを開けた。異国の風景。けれど、不思議と寂しさはなかった。
──ここに、彼がいる。
その想いだけが、心を強く支えていた。
次の日、午前中から始まったクライアントとの打ち合わせは緊張の連続だった。英語は決して流暢とは言えない。それでも、必死に言葉を選び、相手の目を見て話した。通訳を介しながらも、伝えたい想いはまっすぐにぶつけた。
商談がひと段落し、ホテルに戻ったのは夕方近くだった。シャワーを浴び、濡れた髪をタオルでくるみながら、愛奈はぼんやりと窓の外を見つめた。
──会いたいな。
自然とそんな言葉が唇から零れた。
そのときだった。部屋の電話が鳴った。フロントからだった。
「Ms. Horita、ロビーにお客様がお待ちです」
「……お客様?」
心臓が跳ねた。急いで髪を乾かし、最低限の身支度を整えてエレベーターに飛び乗った。ロビーへ向かう途中、何度も自分に言い聞かせた。
(違うかもしれない。違っても、がっかりしないで)
それでも、胸の高鳴りは抑えられなかった。
ロビーに降り立ち、辺りを見回したその瞬間。
視線がぶつかった。
そこに、彼がいた。
加藤亮祐。半年ぶりに見るその姿は、少し痩せたようにも見えたけれど、変わらぬ温かな光をまとっていた。
スーツではなく、カジュアルなジャケットにシャツ姿。けれどその瞳は、まっすぐに愛奈を捉えていた。
ふたりの間に、たくさんの人が行き交っていた。でも、その雑踏の音はすべて遠ざかっていった。見えるのは彼だけ。聞こえるのは、自分の心臓の音だけ。
亮祐が、ゆっくりと歩み寄ってくる。その一歩一歩が、胸の奥にじんわりと染み込んでいく。
そして、目の前に立った彼が、低く優しい声で言った。
「……やっと、会えた」
その瞬間、涙が込み上げた。頬を伝う前に、愛奈は思わず笑った。泣き笑いみたいな顔になってしまったのが、自分でもわかった。
でも、そんなのどうでもよかった。
亮祐が、そっと腕を広げた。ためらうことなく、その胸に飛び込んだ。半年分の寂しさも、会いたかった気持ちも、全部、抱きしめられた瞬間に溶けていった。
「……愛奈さん」
彼が名前を呼んだ。震えるような声で。
「会いに来たんだ」
「……私も、来たよ」
ふたりはしばらく何も言わず、ただ抱き合った。人目なんて、もう気にならなかった。
こんなにも誰かを求めたのは、生まれて初めてだった。
ロビーのざわめきの中で、ふたりだけの静かな時間が流れていた。腕の中の愛奈の体温が、これまでの寂しさや不安を優しく溶かしていく。亮祐はゆっくりと腕を緩め、愛奈の顔を覗き込んだ。
「驚きましたよ……こっちに来るなんて、聞いてなかったから」
「うん、言わなかった。……サプライズにしたかったの」
愛奈は、潤んだ目で笑った。その笑顔が、何よりも眩しかった。ああ、こんなにも会いたかった。こんなにも、この人の笑顔を待っていたんだ。
「今夜、時間ある?」
「ある。ずっと、空けてた。……君に会うために」
自然に手を繋ぎ、ふたりはホテルを出た。夜のニューヨークは、まるでふたりを歓迎するかのように、街の灯りをきらきらと瞬かせていた。イエローキャブが忙しなく行き交い、人々の笑い声が遠くから聞こえてくる。
歩きながら、ふたりはたくさんのことを話した。仕事のこと、お互いに過ごした空白の時間のこと、そして……変わらない想いのこと。
「愛奈さん、すごいですね。プロジェクトリーダーになったって聞きました」
「うん……まだまだだけど。でも、がんばってる」
「……ちゃんと、見てましたよ。日本からの報告書に、あなたの名前が何度も出てきた。……誇らしかった」
愛奈は顔を赤らめ、俯いた。
「私も……亮祐さんのニュース、ずっと追いかけてた。あなたがこっちで頑張ってるって知るたびに、自分も負けてられないって思った」
言葉にするたび、胸が熱くなった。歩幅を合わせるように、ふたりはそっと手を握り直した。
たどり着いたのは、セントラルパークの一角だった。昼間の喧騒とは違い、夜の公園はしんと静まり返り、街の光だけが木々の間から柔らかく差し込んでいた。
ふたりはベンチに腰掛け、しばらく無言で夜空を見上げた。
「……星、見えないね」
愛奈がぽつりと言った。
「うん。でも、灯りはたくさんある」
「……そうだね」
灯りに照らされた彼の横顔を、愛奈はそっと見つめた。あのとき、森の中で感じた温もり。深夜に降る雨の音を聞きながら、手を握り合ったあの夜。すべてが心の中で蘇る。
「亮祐さん……」
呼びかけたその声に、彼はそっと愛奈を見た。その目は、何も言わずともすべてを伝えてくれるような優しさに満ちていた。
「日本に戻ったら、また忙しくなると思う。でも、絶対に……離れたくない。今度こそ、ちゃんと隣にいたい」
震える声だった。それでも、胸を張って伝えたかった。
亮祐は、そっと愛奈の手を包み込んだ。そして、まるで誓うように、静かに言った。
「僕も……ずっと一緒にいたい。離れてた半年間、何度も思ったんです。君がいない世界は、どんなに頑張っても、寂しかった」
その言葉に、涙が溢れた。嬉しくて、愛しくて、どうしようもなかった。
「だから、もう離さない」
ゆっくりと、亮祐が顔を近づけた。愛奈は目を閉じ、彼の唇がそっと重なるのを受け止めた。
甘く、静かなキスだった。
騒がしい街のど真ん中で、ふたりだけの世界が、確かに存在していた。
やがて唇を離し、亮祐が額を寄せた。
「これから先、どんなことがあっても、一緒に未来を見たい」
「うん、私も……一緒に」
答えると、彼が嬉しそうに笑った。その笑顔が、何よりも愛しかった。
夜のセントラルパークで交わした小さな誓い。それは、どんな遠い距離よりも強く、ふたりを結びつけてくれるものだった。
その夜、ふたりはホテルへ戻り、手を繋いだまま静かに眠った。もう、何も怖くなかった。
ふたりで見たかった未来が、いま確かに、始まりつつあった。
【第十五章:最後の出張先で再会】(終)
今回の出張は、海外クライアントとの重要な契約交渉のため。愛奈にとって初めての本格的な海外出張だった。期待と緊張、そしてほんの少しの不安を抱えながら、それでも心の奥底には、別の感情があった。
──向こうで、きっと彼に会える。
誰にも言っていない。亮祐にも、自分がニューヨークに向かうことは伝えていなかった。それなのに、不思議と確信していた。何かに導かれるように、またあの温もりにたどり着けると。
十数時間のフライトを経て、ニューヨーク・JFK空港に到着したとき、愛奈はぐったりと疲れていた。けれど、目に映るすべてが新鮮で、心が躍った。空港からホテルまでのタクシーの窓越しに見るマンハッタンの街並みは、テレビで見るよりもずっと生き生きとしていて、灰色のビル群でさえどこか輝いて見えた。
宿泊先のホテルは、ビジネス街の中心にある中規模ホテルだった。部屋に入ると、大きな窓からはセントラルパークの端がちらりと見えた。
スーツケースをベッドに置き、愛奈はカーテンを開けた。異国の風景。けれど、不思議と寂しさはなかった。
──ここに、彼がいる。
その想いだけが、心を強く支えていた。
次の日、午前中から始まったクライアントとの打ち合わせは緊張の連続だった。英語は決して流暢とは言えない。それでも、必死に言葉を選び、相手の目を見て話した。通訳を介しながらも、伝えたい想いはまっすぐにぶつけた。
商談がひと段落し、ホテルに戻ったのは夕方近くだった。シャワーを浴び、濡れた髪をタオルでくるみながら、愛奈はぼんやりと窓の外を見つめた。
──会いたいな。
自然とそんな言葉が唇から零れた。
そのときだった。部屋の電話が鳴った。フロントからだった。
「Ms. Horita、ロビーにお客様がお待ちです」
「……お客様?」
心臓が跳ねた。急いで髪を乾かし、最低限の身支度を整えてエレベーターに飛び乗った。ロビーへ向かう途中、何度も自分に言い聞かせた。
(違うかもしれない。違っても、がっかりしないで)
それでも、胸の高鳴りは抑えられなかった。
ロビーに降り立ち、辺りを見回したその瞬間。
視線がぶつかった。
そこに、彼がいた。
加藤亮祐。半年ぶりに見るその姿は、少し痩せたようにも見えたけれど、変わらぬ温かな光をまとっていた。
スーツではなく、カジュアルなジャケットにシャツ姿。けれどその瞳は、まっすぐに愛奈を捉えていた。
ふたりの間に、たくさんの人が行き交っていた。でも、その雑踏の音はすべて遠ざかっていった。見えるのは彼だけ。聞こえるのは、自分の心臓の音だけ。
亮祐が、ゆっくりと歩み寄ってくる。その一歩一歩が、胸の奥にじんわりと染み込んでいく。
そして、目の前に立った彼が、低く優しい声で言った。
「……やっと、会えた」
その瞬間、涙が込み上げた。頬を伝う前に、愛奈は思わず笑った。泣き笑いみたいな顔になってしまったのが、自分でもわかった。
でも、そんなのどうでもよかった。
亮祐が、そっと腕を広げた。ためらうことなく、その胸に飛び込んだ。半年分の寂しさも、会いたかった気持ちも、全部、抱きしめられた瞬間に溶けていった。
「……愛奈さん」
彼が名前を呼んだ。震えるような声で。
「会いに来たんだ」
「……私も、来たよ」
ふたりはしばらく何も言わず、ただ抱き合った。人目なんて、もう気にならなかった。
こんなにも誰かを求めたのは、生まれて初めてだった。
ロビーのざわめきの中で、ふたりだけの静かな時間が流れていた。腕の中の愛奈の体温が、これまでの寂しさや不安を優しく溶かしていく。亮祐はゆっくりと腕を緩め、愛奈の顔を覗き込んだ。
「驚きましたよ……こっちに来るなんて、聞いてなかったから」
「うん、言わなかった。……サプライズにしたかったの」
愛奈は、潤んだ目で笑った。その笑顔が、何よりも眩しかった。ああ、こんなにも会いたかった。こんなにも、この人の笑顔を待っていたんだ。
「今夜、時間ある?」
「ある。ずっと、空けてた。……君に会うために」
自然に手を繋ぎ、ふたりはホテルを出た。夜のニューヨークは、まるでふたりを歓迎するかのように、街の灯りをきらきらと瞬かせていた。イエローキャブが忙しなく行き交い、人々の笑い声が遠くから聞こえてくる。
歩きながら、ふたりはたくさんのことを話した。仕事のこと、お互いに過ごした空白の時間のこと、そして……変わらない想いのこと。
「愛奈さん、すごいですね。プロジェクトリーダーになったって聞きました」
「うん……まだまだだけど。でも、がんばってる」
「……ちゃんと、見てましたよ。日本からの報告書に、あなたの名前が何度も出てきた。……誇らしかった」
愛奈は顔を赤らめ、俯いた。
「私も……亮祐さんのニュース、ずっと追いかけてた。あなたがこっちで頑張ってるって知るたびに、自分も負けてられないって思った」
言葉にするたび、胸が熱くなった。歩幅を合わせるように、ふたりはそっと手を握り直した。
たどり着いたのは、セントラルパークの一角だった。昼間の喧騒とは違い、夜の公園はしんと静まり返り、街の光だけが木々の間から柔らかく差し込んでいた。
ふたりはベンチに腰掛け、しばらく無言で夜空を見上げた。
「……星、見えないね」
愛奈がぽつりと言った。
「うん。でも、灯りはたくさんある」
「……そうだね」
灯りに照らされた彼の横顔を、愛奈はそっと見つめた。あのとき、森の中で感じた温もり。深夜に降る雨の音を聞きながら、手を握り合ったあの夜。すべてが心の中で蘇る。
「亮祐さん……」
呼びかけたその声に、彼はそっと愛奈を見た。その目は、何も言わずともすべてを伝えてくれるような優しさに満ちていた。
「日本に戻ったら、また忙しくなると思う。でも、絶対に……離れたくない。今度こそ、ちゃんと隣にいたい」
震える声だった。それでも、胸を張って伝えたかった。
亮祐は、そっと愛奈の手を包み込んだ。そして、まるで誓うように、静かに言った。
「僕も……ずっと一緒にいたい。離れてた半年間、何度も思ったんです。君がいない世界は、どんなに頑張っても、寂しかった」
その言葉に、涙が溢れた。嬉しくて、愛しくて、どうしようもなかった。
「だから、もう離さない」
ゆっくりと、亮祐が顔を近づけた。愛奈は目を閉じ、彼の唇がそっと重なるのを受け止めた。
甘く、静かなキスだった。
騒がしい街のど真ん中で、ふたりだけの世界が、確かに存在していた。
やがて唇を離し、亮祐が額を寄せた。
「これから先、どんなことがあっても、一緒に未来を見たい」
「うん、私も……一緒に」
答えると、彼が嬉しそうに笑った。その笑顔が、何よりも愛しかった。
夜のセントラルパークで交わした小さな誓い。それは、どんな遠い距離よりも強く、ふたりを結びつけてくれるものだった。
その夜、ふたりはホテルへ戻り、手を繋いだまま静かに眠った。もう、何も怖くなかった。
ふたりで見たかった未来が、いま確かに、始まりつつあった。
【第十五章:最後の出張先で再会】(終)