触れた手から始まる恋
エピローグ:ふたりの小さな未来地図
夏のはじまりを告げる風が、街を軽やかに駆け抜けていく。
日曜日の朝、堀田愛奈は、白いカーテンを揺らす風に目を覚ました。
まだ少し眠たげなままベッドの中で伸びをすると、隣で寝息を立てる亮祐がいた。
規則正しい呼吸と、寝ぼけたような顔。その無防備な姿に、愛奈は思わず小さく笑った。
(毎朝、こうやって目覚める日が来るなんて、あの頃は想像もしなかったな)
ゆっくりと手を伸ばし、亮祐の頬に指を触れる。すべすべとした感触が指先に伝わり、それだけで胸がじんわりと温かくなる。
亮祐は小さく呻いて、愛奈の手を掴んだ。
「……もう起きてる?」
「まだ半分寝てるよ」
かすれた声で呟きながらも、彼は愛奈の手をぎゅっと握りしめた。
「じゃあ、もう少し寝よう」
「……うん」
ふたりは指を絡めたまま、ゆっくりとまぶたを閉じた。
そんな何でもない朝が、たまらなく愛おしかった。
**
朝食は、愛奈が簡単にトーストとスクランブルエッグを用意した。
キッチンに立ちながら、ふと振り返ると、ダイニングテーブルで新聞を広げる亮祐の姿が見えた。
日常の一コマ。だけど、それがどれだけ尊いものかを、愛奈は噛み締めていた。
「今日さ、午後から例の物件見に行こうか」
バターを塗りながら亮祐が言った。
「うん、行こう」
頷きながら、愛奈も胸が弾んだ。
──ふたりで探している、新しい家。
結婚式は挙げないと決めたけれど、ふたりの暮らしを築く場所は、しっかりと選びたいと思っていた。
**
午後、ふたりは電車に揺られ、小さな町へ向かった。
駅から徒歩十分の住宅街。静かで、緑が多く、どこか懐かしい匂いのする場所だった。
案内された物件は、二階建ての白い家だった。外壁には蔦が絡まり、小さな庭には紫陽花が咲いていた。
「……かわいい」
思わず愛奈が声を上げると、亮祐も嬉しそうに笑った。
「気に入った?」
「うん、すごく」
中に入ると、リビングは大きな窓から光がたっぷりと差し込んでいて、床には淡い色の無垢材が敷かれていた。
二階には小さな書斎スペースもあった。ふたりで資料を広げて作業したり、休日に並んで本を読んだり──そんな未来が自然と浮かんだ。
「……ここにしようか」
亮祐がぽつりと呟いた。
愛奈は、胸いっぱいに広がる幸せを抱えながら、静かに頷いた。
「うん、ここにしよう」
手を伸ばし、そっと亮祐の手を取った。
(この手と、未来を作っていく)
その思いが、ふたりの間に優しく流れていた。
**
帰り道、小さな雑貨屋に立ち寄った。
そこで見つけたのは、一冊の手帳だった。表紙には、金色でこう書かれていた。
──『Our Future』──
「これ……」
愛奈が手に取ると、亮祐が微笑んだ。
「二人だけの、新しい計画書だね」
「うん。これからの未来、また一緒に書いていこう」
レジで手帳を買い、袋から取り出すと、最初のページにふたりでそっと書き込んだ。
『新しい家に引っ越したら、まず最初に一緒にカレーを作る』
そんな些細なこと。それでも、ふたりにとっては、かけがえのない第一歩だった。
新しい家の契約を終えたあと、ふたりは引っ越し準備に追われる日々を過ごした。段ボール箱に荷物を詰めながら、愛奈はふと手を止める。昔使っていたマグカップ、研修旅行で買ったキーホルダー、書きかけのノート──どれもが、ふたりの歴史をそっと彩っていた。
亮祐はというと、大きな段ボールに無造作に本を詰め込んでは、バランスを崩して中身をばらまくという不器用さを発揮していた。愛奈は思わず吹き出し、そっと寄り添って一緒に本を拾い集めた。
「……片付け、下手だよね」
「否定できない……」
苦笑いしながらも、どこか楽しそうな亮祐。その姿に、愛奈はまた胸がきゅんとした。
段ボールに書かれた『キッチン』『リビング』『思い出』というラベルを眺めながら、ふたりで新しい暮らしのイメージを膨らませた。
「カーテンの色、どうする?」
「愛奈さんの好きな色がいい」
「じゃあ、白……かな。でもちょっとベージュが混じった感じがいいな」
「それ、いいね」
カーテンひとつ、家具の配置ひとつ。全部が、ふたりの新しい物語の始まりだった。
引っ越し当日、汗だくになりながら荷物を運び込み、ようやく一段落した頃には、ふたりともぐったりとソファに沈み込んでいた。
「……疲れた」
「だね。でも、楽しかった」
顔を見合わせ、自然と笑い合う。
窓から入る夕暮れの光が、白いカーテンを優しく透かし、部屋中を温かな色で満たしていた。
「さて、最初に何するんだっけ?」
亮祐が問いかけると、愛奈はにっこり笑った。
「カレー作るんだよ」
「……約束、だったもんね」
ふたりでキッチンに立ち、手際は決して良くないけれど、笑いながら玉ねぎを刻み、人参を炒め、カレーを煮込んだ。
時々手を止めて、互いの顔を見つめ合う時間が、何よりも甘かった。
ようやく出来上がったカレーを、小さなダイニングテーブルに運び、並んで座る。
「いただきます」
手を合わせ、最初の一口を口に運ぶ。
「……おいしい!」
愛奈が感動したように声を上げると、亮祐もホッとしたように笑った。
「よかった。愛奈さんが作った人参、すっごく甘い」
「亮祐さんが炒めた玉ねぎのおかげだよ」
そんな他愛もないやりとりが、胸にじんわりと染みた。
食後、片付けもそこそこに、ふたりはリビングの床に寝転んだ。
何もない天井を見上げながら、手を繋ぐ。
「これから、どんな未来が待ってるんだろうね」
愛奈が呟くと、亮祐は小さな声で答えた。
「きっと、大変なこともたくさんある。でも、全部君と一緒に経験していきたい」
愛奈は、そっと目を閉じた。
(そうだね。どんな未来でも、あなたとなら)
ふたりは静かに、けれど確かに、同じ未来を思い描いていた。
夜が更け、窓の外では、かすかに虫たちの声が聞こえた。
やがて、愛奈は亮祐の腕の中に収まり、そのまま眠りに落ちた。
温かな腕。柔らかな呼吸の音。
すべてが、愛奈にとってこの上ない安心だった。
──これから何十年経っても、こんなふうに、変わらず隣にいられますように。
願いをこめて、愛奈はそっと、亮祐の手を握り直した。
──触れた手から始まった恋は、今、確かな未来へと繋がっている。
──そしてまた、これからも。
どこまでも、ふたりで。
【エピローグ:ふたりの小さな未来地図】(終)
日曜日の朝、堀田愛奈は、白いカーテンを揺らす風に目を覚ました。
まだ少し眠たげなままベッドの中で伸びをすると、隣で寝息を立てる亮祐がいた。
規則正しい呼吸と、寝ぼけたような顔。その無防備な姿に、愛奈は思わず小さく笑った。
(毎朝、こうやって目覚める日が来るなんて、あの頃は想像もしなかったな)
ゆっくりと手を伸ばし、亮祐の頬に指を触れる。すべすべとした感触が指先に伝わり、それだけで胸がじんわりと温かくなる。
亮祐は小さく呻いて、愛奈の手を掴んだ。
「……もう起きてる?」
「まだ半分寝てるよ」
かすれた声で呟きながらも、彼は愛奈の手をぎゅっと握りしめた。
「じゃあ、もう少し寝よう」
「……うん」
ふたりは指を絡めたまま、ゆっくりとまぶたを閉じた。
そんな何でもない朝が、たまらなく愛おしかった。
**
朝食は、愛奈が簡単にトーストとスクランブルエッグを用意した。
キッチンに立ちながら、ふと振り返ると、ダイニングテーブルで新聞を広げる亮祐の姿が見えた。
日常の一コマ。だけど、それがどれだけ尊いものかを、愛奈は噛み締めていた。
「今日さ、午後から例の物件見に行こうか」
バターを塗りながら亮祐が言った。
「うん、行こう」
頷きながら、愛奈も胸が弾んだ。
──ふたりで探している、新しい家。
結婚式は挙げないと決めたけれど、ふたりの暮らしを築く場所は、しっかりと選びたいと思っていた。
**
午後、ふたりは電車に揺られ、小さな町へ向かった。
駅から徒歩十分の住宅街。静かで、緑が多く、どこか懐かしい匂いのする場所だった。
案内された物件は、二階建ての白い家だった。外壁には蔦が絡まり、小さな庭には紫陽花が咲いていた。
「……かわいい」
思わず愛奈が声を上げると、亮祐も嬉しそうに笑った。
「気に入った?」
「うん、すごく」
中に入ると、リビングは大きな窓から光がたっぷりと差し込んでいて、床には淡い色の無垢材が敷かれていた。
二階には小さな書斎スペースもあった。ふたりで資料を広げて作業したり、休日に並んで本を読んだり──そんな未来が自然と浮かんだ。
「……ここにしようか」
亮祐がぽつりと呟いた。
愛奈は、胸いっぱいに広がる幸せを抱えながら、静かに頷いた。
「うん、ここにしよう」
手を伸ばし、そっと亮祐の手を取った。
(この手と、未来を作っていく)
その思いが、ふたりの間に優しく流れていた。
**
帰り道、小さな雑貨屋に立ち寄った。
そこで見つけたのは、一冊の手帳だった。表紙には、金色でこう書かれていた。
──『Our Future』──
「これ……」
愛奈が手に取ると、亮祐が微笑んだ。
「二人だけの、新しい計画書だね」
「うん。これからの未来、また一緒に書いていこう」
レジで手帳を買い、袋から取り出すと、最初のページにふたりでそっと書き込んだ。
『新しい家に引っ越したら、まず最初に一緒にカレーを作る』
そんな些細なこと。それでも、ふたりにとっては、かけがえのない第一歩だった。
新しい家の契約を終えたあと、ふたりは引っ越し準備に追われる日々を過ごした。段ボール箱に荷物を詰めながら、愛奈はふと手を止める。昔使っていたマグカップ、研修旅行で買ったキーホルダー、書きかけのノート──どれもが、ふたりの歴史をそっと彩っていた。
亮祐はというと、大きな段ボールに無造作に本を詰め込んでは、バランスを崩して中身をばらまくという不器用さを発揮していた。愛奈は思わず吹き出し、そっと寄り添って一緒に本を拾い集めた。
「……片付け、下手だよね」
「否定できない……」
苦笑いしながらも、どこか楽しそうな亮祐。その姿に、愛奈はまた胸がきゅんとした。
段ボールに書かれた『キッチン』『リビング』『思い出』というラベルを眺めながら、ふたりで新しい暮らしのイメージを膨らませた。
「カーテンの色、どうする?」
「愛奈さんの好きな色がいい」
「じゃあ、白……かな。でもちょっとベージュが混じった感じがいいな」
「それ、いいね」
カーテンひとつ、家具の配置ひとつ。全部が、ふたりの新しい物語の始まりだった。
引っ越し当日、汗だくになりながら荷物を運び込み、ようやく一段落した頃には、ふたりともぐったりとソファに沈み込んでいた。
「……疲れた」
「だね。でも、楽しかった」
顔を見合わせ、自然と笑い合う。
窓から入る夕暮れの光が、白いカーテンを優しく透かし、部屋中を温かな色で満たしていた。
「さて、最初に何するんだっけ?」
亮祐が問いかけると、愛奈はにっこり笑った。
「カレー作るんだよ」
「……約束、だったもんね」
ふたりでキッチンに立ち、手際は決して良くないけれど、笑いながら玉ねぎを刻み、人参を炒め、カレーを煮込んだ。
時々手を止めて、互いの顔を見つめ合う時間が、何よりも甘かった。
ようやく出来上がったカレーを、小さなダイニングテーブルに運び、並んで座る。
「いただきます」
手を合わせ、最初の一口を口に運ぶ。
「……おいしい!」
愛奈が感動したように声を上げると、亮祐もホッとしたように笑った。
「よかった。愛奈さんが作った人参、すっごく甘い」
「亮祐さんが炒めた玉ねぎのおかげだよ」
そんな他愛もないやりとりが、胸にじんわりと染みた。
食後、片付けもそこそこに、ふたりはリビングの床に寝転んだ。
何もない天井を見上げながら、手を繋ぐ。
「これから、どんな未来が待ってるんだろうね」
愛奈が呟くと、亮祐は小さな声で答えた。
「きっと、大変なこともたくさんある。でも、全部君と一緒に経験していきたい」
愛奈は、そっと目を閉じた。
(そうだね。どんな未来でも、あなたとなら)
ふたりは静かに、けれど確かに、同じ未来を思い描いていた。
夜が更け、窓の外では、かすかに虫たちの声が聞こえた。
やがて、愛奈は亮祐の腕の中に収まり、そのまま眠りに落ちた。
温かな腕。柔らかな呼吸の音。
すべてが、愛奈にとってこの上ない安心だった。
──これから何十年経っても、こんなふうに、変わらず隣にいられますように。
願いをこめて、愛奈はそっと、亮祐の手を握り直した。
──触れた手から始まった恋は、今、確かな未来へと繋がっている。
──そしてまた、これからも。
どこまでも、ふたりで。
【エピローグ:ふたりの小さな未来地図】(終)