触れた手から始まる恋
アフターストーリー第1章:「君と迎える、はじまりの日」
朝の光が、レースのカーテンを柔らかく通り抜け、ふたりの新しい寝室を優しく照らしていた。
堀田愛奈は、ふわりと瞼を持ち上げ、隣に寝ている亮祐の寝顔を見つめた。
大きな手を軽く握ったまま眠る彼の姿は、安心しきった子供のようだった。
──今日から、本当に新しい生活が始まる。
その実感に、胸がふわりと温かくなる。
昨日までの賑やかな引っ越し作業が嘘のように、家の中はしんと静かだった。まだ段ボールはいくつも積み上がっているし、家具も完璧には揃っていない。
それでも、この空間は、間違いなくふたりの“はじまりの場所”だった。
愛奈はそっとベッドを抜け出し、キッチンへ向かった。
カップボードには、まだ未開封の食器たち。冷蔵庫の中も、必要最低限の食材しかない。それでも、小さなマグカップとインスタントコーヒーを取り出して、静かにお湯を沸かした。
コーヒーの香りが広がり始めたころ、背後で布団の擦れる音がした。
「……愛奈さん?」
振り向くと、亮祐が髪をぐしゃぐしゃにしたまま、眠たげな顔で立っていた。
「おはよう。……起こしちゃった?」
「ううん……起きたかったから」
かすれた声で答えながら、亮祐はふらふらと近づいてきて、愛奈の肩に額を預けた。
「……幸せすぎて、怖い」
そんな呟きが耳元に落ちた。
愛奈は、そっと彼の背中に手を回した。
「大丈夫。怖がらなくていいよ。これが、私たちの普通になるんだから」
亮祐は、小さく笑った。
そして、ふたりで並んでコーヒーを飲んだ。
カーテン越しの朝日と、微かなコーヒーの湯気。
たったそれだけで、世界が満ちていた。
**
午前中は、ふたりで家の中を片付けた。
本棚に並ぶ本たち。クローゼットにしまう服たち。
どれも、亮祐と愛奈、それぞれの人生の積み重ねだった。
「これ、大学時代の?」
愛奈が手にしたのは、古びたノートだった。
「うん。卒論のやつ……懐かしいな」
ページをめくると、びっしりと書き込まれた文字と、ところどころに挟まれたメモ用紙。
そこには、若き日の彼の真剣な姿が刻まれていた。
「……すごい、頑張ってたんだね」
「うん。でも、今思うと、愛奈さんと頑張る未来のほうが、ずっと楽しい」
さらりと、そんなことを言う。
胸の奥が、きゅうっと甘く締め付けられた。
午後、ふたりでスーパーに出かけ、簡単な夕食の材料を買い込んだ。
買い物カゴを押す亮祐と、メモを片手に食材を探す愛奈。
それだけの時間が、宝物みたいに愛しかった。
レジを済ませ、スーパーの外に出ると、夕暮れが街をオレンジ色に染めていた。
ふと、愛奈が立ち止まった。
「……ねぇ、ちょっと寄り道しない?」
「うん、どこへ?」
「秘密」
笑いながら、愛奈は亮祐の手を取った。
愛奈に手を引かれ、亮祐は何も聞かずにそのあとをついていった。
スーパーの袋をひとつずつ手に持ち、ふたりで小さな住宅街を抜け、少し開けた公園へとたどり着く。
公園といっても、広い芝生と小さな滑り台、ベンチがぽつんと置かれただけの場所だった。
それでも、夕焼けに染まる空と、遠くに聞こえる子供たちの笑い声が、ふたりをやわらかく包み込んでいた。
「ここ……なんとなく、来たくなっちゃった」
愛奈はそう言って、芝生の上に腰を下ろした。
亮祐も隣に座る。スーパーの袋を脇に置き、ふたりで夕空を仰ぎ見た。
「きれいだな……」
亮祐がぽつりと呟いた。
空は茜色から群青へと移り変わろうとしていた。
そのグラデーションを、ふたりは黙って見つめた。
愛奈はそっと、亮祐の手に自分の手を重ねた。
「今日、すごく嬉しかった」
「何が?」
「全部」
短い言葉。でも、すべてが詰まっていた。
引っ越しも、家具選びも、カレー作りも、スーパーでの買い物も。
そんな何でもない日常が、今までで一番、幸せだった。
亮祐は、愛奈の手をぎゅっと握り返した。
「俺も、全部嬉しかったよ。……これからも、毎日、こうやって一緒に過ごしていこう」
「うん」
愛奈は小さく頷いた。
ふと、公園の隅に、小さな花が咲いているのが見えた。
名も知らない、白い小さな花。
風に揺れて、まるでふたりを祝福するかのように、静かに笑っていた。
愛奈は立ち上がり、その花にそっと手を伸ばした。
摘み取るのではなく、そっと指先で撫でるだけ。
──壊したくない、ただ、そっと触れたい。
そんな気持ちだった。
振り返ると、亮祐が穏やかな目で愛奈を見ていた。
「……ねぇ、加藤さん」
「ん?」
「私たち、これからも、こんなふうに、小さな幸せをいっぱい集めていこうね」
「うん。絶対に」
夕暮れの空の下で、ふたりはもう一度、そっと手を繋いだ。
たったそれだけのことが、世界で一番の約束だった。
手を繋いだまま、ふたりは家へ向かって歩き出す。
スーパーの袋が少し重くなっていたけれど、それさえも愛おしい。
新しい家。
新しい暮らし。
新しい毎日。
──すべてが、ふたりの未来地図のはじまりだった。
夜、家に戻ると、リビングに座り込んだふたりは、ふと笑い出した。
「なんか、今日だけで一生分幸せ感じたかも」
「早すぎるよ」
「ふふ、でも、そう思っちゃうくらい、幸せだったんだもん」
愛奈の無邪気な笑顔に、亮祐もたまらなく愛しくなって、そっと彼女を抱き寄せた。
「これからも、毎日更新していこう」
「うん。毎日、世界一の幸せを更新していこうね」
ぎゅっと抱き合いながら、ふたりは未来への誓いを静かに交わした。
カーテン越しに見える夜空には、まだかすかに夕焼けの名残が滲んでいた。
──ふたりで繋いだ手は、もう、ほどけることはなかった。
【アフターストーリー第1章:「君と迎える、はじまりの日」】(終)
堀田愛奈は、ふわりと瞼を持ち上げ、隣に寝ている亮祐の寝顔を見つめた。
大きな手を軽く握ったまま眠る彼の姿は、安心しきった子供のようだった。
──今日から、本当に新しい生活が始まる。
その実感に、胸がふわりと温かくなる。
昨日までの賑やかな引っ越し作業が嘘のように、家の中はしんと静かだった。まだ段ボールはいくつも積み上がっているし、家具も完璧には揃っていない。
それでも、この空間は、間違いなくふたりの“はじまりの場所”だった。
愛奈はそっとベッドを抜け出し、キッチンへ向かった。
カップボードには、まだ未開封の食器たち。冷蔵庫の中も、必要最低限の食材しかない。それでも、小さなマグカップとインスタントコーヒーを取り出して、静かにお湯を沸かした。
コーヒーの香りが広がり始めたころ、背後で布団の擦れる音がした。
「……愛奈さん?」
振り向くと、亮祐が髪をぐしゃぐしゃにしたまま、眠たげな顔で立っていた。
「おはよう。……起こしちゃった?」
「ううん……起きたかったから」
かすれた声で答えながら、亮祐はふらふらと近づいてきて、愛奈の肩に額を預けた。
「……幸せすぎて、怖い」
そんな呟きが耳元に落ちた。
愛奈は、そっと彼の背中に手を回した。
「大丈夫。怖がらなくていいよ。これが、私たちの普通になるんだから」
亮祐は、小さく笑った。
そして、ふたりで並んでコーヒーを飲んだ。
カーテン越しの朝日と、微かなコーヒーの湯気。
たったそれだけで、世界が満ちていた。
**
午前中は、ふたりで家の中を片付けた。
本棚に並ぶ本たち。クローゼットにしまう服たち。
どれも、亮祐と愛奈、それぞれの人生の積み重ねだった。
「これ、大学時代の?」
愛奈が手にしたのは、古びたノートだった。
「うん。卒論のやつ……懐かしいな」
ページをめくると、びっしりと書き込まれた文字と、ところどころに挟まれたメモ用紙。
そこには、若き日の彼の真剣な姿が刻まれていた。
「……すごい、頑張ってたんだね」
「うん。でも、今思うと、愛奈さんと頑張る未来のほうが、ずっと楽しい」
さらりと、そんなことを言う。
胸の奥が、きゅうっと甘く締め付けられた。
午後、ふたりでスーパーに出かけ、簡単な夕食の材料を買い込んだ。
買い物カゴを押す亮祐と、メモを片手に食材を探す愛奈。
それだけの時間が、宝物みたいに愛しかった。
レジを済ませ、スーパーの外に出ると、夕暮れが街をオレンジ色に染めていた。
ふと、愛奈が立ち止まった。
「……ねぇ、ちょっと寄り道しない?」
「うん、どこへ?」
「秘密」
笑いながら、愛奈は亮祐の手を取った。
愛奈に手を引かれ、亮祐は何も聞かずにそのあとをついていった。
スーパーの袋をひとつずつ手に持ち、ふたりで小さな住宅街を抜け、少し開けた公園へとたどり着く。
公園といっても、広い芝生と小さな滑り台、ベンチがぽつんと置かれただけの場所だった。
それでも、夕焼けに染まる空と、遠くに聞こえる子供たちの笑い声が、ふたりをやわらかく包み込んでいた。
「ここ……なんとなく、来たくなっちゃった」
愛奈はそう言って、芝生の上に腰を下ろした。
亮祐も隣に座る。スーパーの袋を脇に置き、ふたりで夕空を仰ぎ見た。
「きれいだな……」
亮祐がぽつりと呟いた。
空は茜色から群青へと移り変わろうとしていた。
そのグラデーションを、ふたりは黙って見つめた。
愛奈はそっと、亮祐の手に自分の手を重ねた。
「今日、すごく嬉しかった」
「何が?」
「全部」
短い言葉。でも、すべてが詰まっていた。
引っ越しも、家具選びも、カレー作りも、スーパーでの買い物も。
そんな何でもない日常が、今までで一番、幸せだった。
亮祐は、愛奈の手をぎゅっと握り返した。
「俺も、全部嬉しかったよ。……これからも、毎日、こうやって一緒に過ごしていこう」
「うん」
愛奈は小さく頷いた。
ふと、公園の隅に、小さな花が咲いているのが見えた。
名も知らない、白い小さな花。
風に揺れて、まるでふたりを祝福するかのように、静かに笑っていた。
愛奈は立ち上がり、その花にそっと手を伸ばした。
摘み取るのではなく、そっと指先で撫でるだけ。
──壊したくない、ただ、そっと触れたい。
そんな気持ちだった。
振り返ると、亮祐が穏やかな目で愛奈を見ていた。
「……ねぇ、加藤さん」
「ん?」
「私たち、これからも、こんなふうに、小さな幸せをいっぱい集めていこうね」
「うん。絶対に」
夕暮れの空の下で、ふたりはもう一度、そっと手を繋いだ。
たったそれだけのことが、世界で一番の約束だった。
手を繋いだまま、ふたりは家へ向かって歩き出す。
スーパーの袋が少し重くなっていたけれど、それさえも愛おしい。
新しい家。
新しい暮らし。
新しい毎日。
──すべてが、ふたりの未来地図のはじまりだった。
夜、家に戻ると、リビングに座り込んだふたりは、ふと笑い出した。
「なんか、今日だけで一生分幸せ感じたかも」
「早すぎるよ」
「ふふ、でも、そう思っちゃうくらい、幸せだったんだもん」
愛奈の無邪気な笑顔に、亮祐もたまらなく愛しくなって、そっと彼女を抱き寄せた。
「これからも、毎日更新していこう」
「うん。毎日、世界一の幸せを更新していこうね」
ぎゅっと抱き合いながら、ふたりは未来への誓いを静かに交わした。
カーテン越しに見える夜空には、まだかすかに夕焼けの名残が滲んでいた。
──ふたりで繋いだ手は、もう、ほどけることはなかった。
【アフターストーリー第1章:「君と迎える、はじまりの日」】(終)