触れた手から始まる恋

第五章:合掌造り集落にて

 夜明け前の東京駅には、旅の始まりを告げるようなわずかな高揚感が漂っていた。まだ眠たげなホームの空気に、スーツケースのキャスターが静かに転がる音が響く。春の空は白んできていて、冷えた空気に吐く息が少しだけ白く曇った。
 堀田愛奈は、小ぶりなキャリーケースを片手に、新幹線の改札前に立っていた。社内研修旅行──その言葉の響きは、どこか学生時代の行事のようで、少しだけ気恥ずかしかった。目的地は、飛騨の山奥にある合掌造りの集落。観光地としても知られているその地に、全国の支社の若手社員を集めた研修が用意されていた。
 「堀田さん、おはようございます」
 後ろからかけられた声に振り向くと、加藤亮祐がキャリーバッグを引きながら立っていた。紺色の薄手のコートに包まれた姿はいつもより少しカジュアルで、ビジネススーツとは違う印象が新鮮だった。
 「おはようございます。……なんか、不思議な感じですね。会社の人たちと、旅行みたいに移動するの」
 「確かに。でも、ちょっと楽しみだったりします。景色とか、空気とか……都会とは違うものに、触れてみたくて」
 「触れてみたい……か。いいですね、そういうの」
 思わず微笑む愛奈の表情に、亮祐も静かに笑った。そのまま二人並んで改札を抜け、新幹線のホームへと向かう。他の社員たちもちらほらと集まり始めており、和やかな雰囲気の中であいさつが交わされる。
 車内では、偶然か、あるいは誰かの気遣いか、愛奈と亮祐は隣同士の席だった。車窓の外を眺めながら、とりとめのない会話が続く。話題はコーヒーの好みから、最近見た映画、そして、まだ行ったことのない国のことまで。日常の延長のようでいて、どこか浮遊感のある時間。東京を離れるに連れて、二人の言葉も少しずつ自由になっていくようだった。
 列車は岐阜の駅に到着し、そこからは貸し切りのバスに揺られる。山道をくねくねと登りながら、次第に空気が変わっていくのを愛奈は感じていた。木々の香り、窓に映る山影、時折現れる茅葺き屋根の民家。どれもが、普段の生活では出会わない景色だった。
 昼過ぎ、ようやくたどり着いた合掌造りの集落は、まるで時間が止まったような世界だった。三角屋根の大きな建物が連なり、石畳の道を水が流れている。ゆったりとした風が吹き抜け、耳に届くのは鳥の声と風の音だけ。
 「すごい……本当に、タイムスリップしたみたい」
 「ですね。なんか、空気まで違う」
 宿泊先の古民家に荷物を置き、簡単なオリエンテーションが終わると、自由行動の時間が与えられた。午後のひととき、愛奈と亮祐は他の数人と共に、集落内を散策することにした。けれど、写真を撮ったりお土産屋を覗いたりと賑やかに動く同僚たちとは少し離れて、ふたりは自然と静かな路地裏へと足を進めていた。
 「なんか、あっちの方、人が少なそうですね」
 「……行ってみましょうか。せっかくだし、静かなところでゆっくり歩きたい」
 小さな橋を渡り、竹垣に囲まれた細道を進むと、眼前にひときわ大きな合掌造りの家が現れた。観光案内図には載っていなかったその家は、今は使われていないのか、ひっそりと佇んでいた。
 「ここ……誰もいないみたい。入れないけど、雰囲気すごくいいですね」
 「まるで誰かの記憶の中に迷い込んだみたいな感じがします」
 ぽつりと漏れた亮祐の言葉に、愛奈は思わず振り返る。彼の横顔は、どこか遠くを見ているようだった。
 「……加藤さん」
 「……僕、高校のとき、部活もサークルも続かなかったんです。勉強も、人付き合いも、どれも中途半端で。うまくやろうとして空回りして、いつの間にか何もかも手を離してた。でも、最近思うんです。あのとき“続けていたら”って」
 「……後悔、してるんですか?」
 「うん。けど、それを口にしたくなくて。でも、堀田さんと仕事をするようになって、やっと少し、自分が変われるかもしれないって思えるようになったんです。遅いかもしれないけど、ちゃんと誰かと向き合うことが、怖くなくなった」
 胸の奥が、じんわりと熱くなった。彼の不器用な努力、その真面目な迷い。今、自分にだけ見せてくれている弱さ。それが、ただ愛おしくてたまらなかった。
 「……私、昔から何でもそつなくこなすって言われてきました。でも、本当は違うんです。失敗したくなくて、怖くて、だからこそ無難にまとめることしかできなかった。でも、最近……あなたと仕事をしてると、自分の意見を言ってもいいんだって思えるようになって」
 ふたりは、向かい合って立っていた。傾きかけた日差しが、屋根の間からこぼれて頬を照らす。その光に、自然と目を細めながら、愛奈はゆっくりと手を伸ばした。
 「……私、こうやってあなたと話せてよかった。何も飾らずに、ちゃんと向き合える相手って、そんなにたくさんいないから」
 亮祐がそっと、彼女の手を取った。重なった掌の間に、山の冷たい空気とは対照的な、確かな温もりがあった。風がふたりの髪を揺らし、時間がゆっくりと流れる。
 「……ありがとう。僕も、今の堀田さんに出会えてよかった」
 その手を離さずに、ふたりは静かに見つめ合った。過去の後悔も、迷いも、今ここにある温もりの前では、すべてが小さく思えた。



 誰もいない合掌造りの家の前で、重ねた手のぬくもりをそのまま抱きしめるように、ふたりはしばらくその場に立ち尽くしていた。風の音すら穏やかに感じられ、遠くから時折聞こえる鳥のさえずりが、まるでその静けさを引き立てているようだった。過去の痛みも迷いも、今この瞬間だけはやさしく包まれている。そんな空間だった。
 「……そろそろ、戻らなきゃですね。夕食の時間、決まってましたよね?」
 亮祐がそっと手を引いて、愛奈に優しく問いかける。握られた手に残る温かさが、離したくないと思わせた。でも同時に、急がなくてはという現実がふたりを軽く引き戻した。
 「うん、たしか十七時半からって言ってた。まだ時間あるけど……暗くなる前に戻ろうか」
 宿へ戻る道すがら、ふたりは少しだけ距離を取って歩いていた。手はもうつないでいない。でも、先ほどのぬくもりが指先に残っている。何も語らずとも、それがふたりの間に静かに存在していた。
 古民家の宿は、畳の香りが鼻をくすぐる、どこか懐かしい空間だった。廊下を歩くと板のきしむ音がして、窓の向こうには雪解け水が流れる小川が見えた。夕食は大広間で、囲炉裏を囲むような形で用意されていた。焼き魚、山菜、豆腐の田楽。どれもが素朴ながら丁寧な味わいで、普段の生活では味わえない“静けさを食べる”ようなひとときだった。
 愛奈は隣に座った夏菜恵と小声で話しながらも、時折視線を上げて、向かいの席にいる亮祐の様子をそっと見た。彼は同僚たちの冗談に笑いながらも、ふとした瞬間にこちらへ視線を送ってきて、そのたびに愛奈の心臓が静かに跳ねた。言葉を交わすことはなかったが、その目に宿るやわらかさが、昼間の出来事が夢ではなかったことを証明してくれていた。
 夕食後、希望者は自由参加という形で、夜の集落散策が企画されていた。懐中電灯を片手に、数人のグループで提灯の明かりを頼りに歩く夜道。観光地とは思えないほどの静けさと、囲まれるような山の黒い影。そのなかで、小さなランプの灯りだけが頼りだった。
 愛奈は最初、同じグループの後輩と歩いていたが、ふとしたタイミングでふたりの距離が離れ、気づけば列の後ろの方でひとりになっていた。提灯の灯りも遠ざかり、かすかに木々のざわめきが耳に残る。
 「……え、待って、どこ?」
 呼びかける声も届かず、一気にあたりが心許なくなる。懐中電灯を手に小道を進んでいくと、今度は山裾の方からカサリと何かが動く気配がして、愛奈は思わず立ち止まった。冗談だとわかっていても、暗闇のなかで聞こえる小さな音ほど、人の心を揺さぶるものはない。
 「……っ、やだ、誰か、いないの……?」
 怖さをこらえて声を上げたそのとき、背後から足音が近づいてきた。パキ、パキ、と落ち葉を踏む音。そしてその直後、あたたかな声が響く。
 「堀田さん!」
 振り向いた瞬間、愛奈の腕を誰かが引き寄せ、体がふわりと包まれた。少しだけ息を呑むような静寂の中で、彼の香りがふっと鼻先をかすめた。張り詰めていた心の糸が切れるように、愛奈はそのまま力を抜いた。
 「……加藤さん……」
 「探しましたよ。はぐれたって聞いて、慌てて……」
 「……ありがとう。ごめんなさい、ちょっと、怖くて……」
 声が震えた。恥ずかしいと思いながらも、彼の腕の中で素直になれることが、今は何よりも心地よかった。彼は何も言わずに、しばらくそのまま愛奈を抱きしめていた。鼓動の音が、服越しに伝わってくる。そのリズムが、自分のものと重なっているようで、愛奈の胸の奥が熱くなった。
 「……大丈夫。もう離れません」
 彼のその一言に、愛奈は黙ってうなずいた。手を伸ばして、彼の背に指を添える。そのぬくもりが、自分を現実に繋ぎ止めてくれる。夜の山の中、ふたりは誰にも気づかれない場所で、ただ静かに確かめ合っていた。
 ようやく元の道に戻ると、提灯の明かりが再び視界に入り、数人の社員がほっとしたように声をかけてきた。「よかったー! 見つかったんですね!」と夏菜恵が手を振ってくる。その横顔には、何かを察したような微笑が浮かんでいた。
 宿に戻ったあと、愛奈は自室に入る前、ふと足を止めた。振り返ると、廊下の奥に亮祐の姿が見えた。彼も立ち止まり、言葉ではなくただ、穏やかな視線を送ってくる。
 「……おやすみなさい、加藤さん」
 「おやすみなさい。……いい夢を」
 そう言って笑った彼の横顔に、愛奈は心の中でそっと願った。どうかこの時間が、夢じゃありませんように。たとえ終わりがあるとしても、このぬくもりだけは、覚えていたい。
 月明かりが合掌造りの屋根を優しく照らしていた。その光はまるで、ふたりの未来をそっと見守っているかのように、静かに、そして確かに夜を包んでいた。
 【第五章:合掌造り集落にて】(終)
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