触れた手から始まる恋

第四章:触れた手が伝える温もり

 朝のオフィスはいつもより静かだった。窓際に差し込む春の光が、デスクの書類に柔らかい影を落としている。コピー機の音、コーヒーマシンの湯気の音、誰かがタイピングするリズム。日常の喧騒のなかに、ほんの少しの静けさが混じる、そんな朝。
 堀田愛奈は自席でコーヒーを口にしながら、社内資料の整理をしていた。週末に向けて準備しているプロジェクトの詳細確認。誰に任せるべきタスクか、どこに負荷が集中しているか──チェック項目は山ほどあったが、手の動きは軽かった。思考が研ぎ澄まされていた。どこか、心に一本の芯が通っているような感覚。
 先日、亮祐と並んで歩いた川沿いの道。夜風に揺れる枝の音、交わされた短い言葉、そしてそのときの彼の眼差し。それが今も愛奈の中で静かに反芻されていた。恋というにはまだ曖昧な、それでも確かに輪郭を持ちはじめたこの感情が、胸の奥に熱を宿している。
 「堀田さん、少しお時間いいですか?」
 ふと聞こえた声に顔を上げると、そこには亮祐が立っていた。ワイシャツの袖を軽くまくり、資料の束を抱えている姿は、いつになく落ち着いて見える。
 「資料作成、手伝ってほしいんです。今日中にある程度まとめたいので、確認しながら一緒に作業できたら」
 「もちろん、いいですよ。どこでやりますか?」
 「会議室、空いてます。プロジェクターも使えるし」
 ふたりはノートパソコンと資料を手に、フロアの奥にある小会議室へと向かった。中に入ると、ブラインドから差し込む光が少し眩しくて、愛奈は反射的にスイッチを探し、やわらかい照明に切り替えた。天井のライトが天板を包むように照らし出し、書類の白がやさしく浮かび上がる。
 「ちょっと狭いですけど……このくらいの方が集中できますよね」
 亮祐が席に着きながら言う。会議室の長テーブルにノートPCを並べて座ると、自然と距離が近くなった。向かい合うのではなく、隣に並ぶという形。パソコンの画面を共有しながら、資料の修正を進めていく。
 「ここ、数値を入れた方が説得力出ますよね。あ、でも……このグラフ、ちょっとレイアウトが崩れてるかも」
 「貸して。調整してみますね」
 愛奈は自分のノートパソコンに手を伸ばし、キー操作を始める。すると、彼も同時に隣のトラックパッドに指を伸ばし、ふたりの手が、ひとつのデバイスの上で触れた。
 時間が止まったように感じた。
 ほんの一瞬、指先が重なっただけ。それなのに、そのわずかな接触が、まるで心に直接触れたかのような衝撃をもたらした。彼の指の温度。皮膚の感触。電気的な痺れにも似た感覚が、愛奈の胸を一気に駆け上がる。
 彼もまた、動きを止めた。視線が重なり、ふたりとも無言のまま目をそらせなかった。逃げるには近すぎる距離。冗談で誤魔化すには、あまりにも真剣な空気。
 「……すみません、つい……」
 亮祐がかすかに眉を下げ、言葉を飲み込む。けれど、その声音には照れよりも、戸惑いよりも、もっと別の感情が混ざっていた。彼の目に映るのは、明らかに愛奈自身。そして、そのまなざしは、ただの「上司が部下を見る」それとは違っていた。
 「私、平気です。……驚いただけで」
 ようやく声に出したその返事も、どこか上ずっていて、自分で聞いても落ち着きがないのがわかる。けれど、それでいいと思えた。無理に平静を装う必要なんてない。だってこれは、自然な反応。彼の存在が、自分にとってどれだけ特別になってきているかの証拠だから。
 作業は再開されたものの、ふたりの間に流れる空気は明らかに変わっていた。キーボードを叩く手も、交わす言葉も、どこか慎重になる。けれどそれは、緊張というよりも、大切にしたいという気持ちの表れだった。
 「……さっき、驚いた顔が、かわいかったです」
 画面を見つめたまま亮祐がぽつりと呟いたその一言に、愛奈の手が止まった。
 「え?」
 「いや、冗談です。……ちょっと、言ってみたかっただけで」
 冗談にするには、声があまりにも優しかった。照れ隠しの笑顔の奥に、彼の本心が滲んでいた。その言葉を胸の奥で繰り返しながら、愛奈はただ静かに、パソコンの画面を見つめた。
 目の前のプロジェクトも、彼との距離も、どちらもまだ完成には遠い。けれど、少しずつ形になっていく。その過程こそが、今の自分にとってかけがえのない時間だった。
 会議室を出ると、すでに日は傾き始めていて、オフィスの窓から夕焼けが差し込んでいた。ほんの少し染まった空の色が、ふたりの影を長く伸ばしている。自然と並んで歩く帰り道、言葉は少なくても、その沈黙が心地よかった。
 ふとした瞬間、彼の手の甲が、自分の手に触れた。今度は、意図的ではない。けれど、愛奈はその温もりを、決して振り払わなかった。
 たとえ言葉にしなくても、触れた手が伝えてくれることがある。距離よりも、時間よりも、強く、確かに。



 オフィスの廊下を並んで歩く二人の足音が、薄く残る夕焼け色の照明の中で一定のリズムを刻んでいた。ほとんど無言だったけれど、それが不自然に感じることはなかった。むしろ、言葉を使わなくても通じ合える何かがあるような気がして、その沈黙が愛おしかった。会議室で重なった指先の感触がまだ手に残っているようで、愛奈は無意識に自分の右手を左手で握った。
 社員の姿もまばらになったオフィスを抜け、エントランスの自動ドアを出た瞬間、ひんやりとした夜の空気が頬を撫でた。昼間の暖かさとは裏腹に、春の風はまだ冬の名残をまとっていた。そんな空気に肩をすくめると、横を歩いていた亮祐がすっと歩を止め、愛奈の方を振り向いた。
 「駅まで、送ります」
 「えっ? あ、でも……私、ちょっと寄り道したくて……」
 「寄り道?」
 「うん、いつも行くカフェがあって、ちょっとだけ……。たまに寄って、頭を切り替えるのが癖なんです」
 それを聞いた亮祐は少し考え、歩幅を合わせながら言った。
 「なら、付き合ってもいいですか?」
 その一言に、愛奈の胸が不意に高鳴る。彼がそう言ってくれたことに対して喜びを感じている自分に気づいて、少しだけ頬が熱くなる。
 「……いいですよ。でも、コーヒー、ちょっとクセあるから、覚悟しててくださいね」
 二人が向かったのは、愛奈がいつも利用している駅前の小さなカフェ『青い月』。ガラス越しに温かな灯りがこぼれるその店は、夜になるとまた違った顔を見せる。昼間よりも照明が落とされていて、静かな音楽とともに大人の時間が流れていた。
 ドアを開けると、チリンと優しい音のベルが鳴る。顔馴染みのバリスタがすぐに気づいて、愛奈に軽く頷いた。
 「いらっしゃいませ。今日はおふたり?」
 「うん、同僚が一緒に」
 「どうぞ、奥の席空いてますよ」
 奥まった二人掛けの席に案内されると、ふたりはほぼ同時に「中煎りのブレンドで」と注文した。思わず目が合って、笑ってしまう。
 「……真似したわけじゃないです。なんとなく、今日はそういう気分だっただけで」
 「大丈夫、責めてませんから。なんか、そういう偶然って、ちょっと嬉しいですよね」
 温かな空気がふたりの間をふんわりと包み込み、外の夜風がまるで別世界の出来事のように思えた。
 カップが運ばれてくると、亮祐はふと、愛奈の手元に視線を落とした。無意識にカップの取っ手を撫でていたその手を見つめながら、ゆっくりと口を開いた。
 「……さっき、手が触れたとき。僕、何も言えなかったけど、実は少し……嬉しかったです」
 その言葉に、愛奈の心臓が跳ねた。まるでコーヒーの香りが深く染み込んでいくみたいに、その声が体の奥にしみていく。
 「わたしも……驚いたけど、嫌じゃなかったです。……むしろ、ドキドキしてて……まだ、ちょっとしてます」
 カップを口元に運びながら、そっとそう呟くと、彼の視線が優しく和らいだ。その目は、どこか自分を映している鏡のようで、見つめられるたびに心が透けていくような気持ちになる。
 「……こういうのって、仕事の中で自然と生まれてくるものなんですね。最初は、ただの部署異動って思ってたのに」
 「私もです。もっと冷たい関係で終わると思ってました。ちゃんと業務をこなして、礼儀を守って、でもそれだけで」
 「でも、違ってましたよね。……最初に、カフェで会ったときから」
 その言葉に、愛奈は自然と頷いた。思い出すのは、あの晴れた朝。コーヒーを片手に、彼の焦った声に笑った瞬間。あれが、このあたたかな気持ちの始まりだったのだと、ようやくはっきりとわかる。
 カップの中のコーヒーが少し冷め始めていた。でも、そのぬるささえ、今は心地よく感じられる。言葉のない時間が流れ、二人の視線がゆっくりと重なった。
 「……もし、私が明日、別の部署に異動になっても、たぶん加藤さんのことは忘れられないと思います」
 「そんなこと言わないでくださいよ。……僕はまだ、あなたと一緒に仕事がしたいです。もっと話したいし、もっと知りたい」
 亮祐の言葉には、真っ直ぐな誠実さがあった。見栄も駆け引きもない、ただそこにいる人間としての心からの想い。それが胸を打ち、愛奈の目にじんわりと涙がにじんだ。
 「……ああ、もう、ずるいな。そんなの聞いたら、また頑張りたくなっちゃう」
 「頑張ってください。僕、堀田さんが頑張ってる姿、好きなんです」
 はにかむような笑顔が、愛奈の中に優しく染み込んでいった。その夜、ふたりが交わした言葉のすべてが、まるでキャンドルの灯のように穏やかで、でも確かに、心を温めてくれるものだった。
 帰り道、駅の階段を並んで降りながら、ふたりの手がふと触れた。そして、今度はどちらも、その手を離さなかった。指と指がゆっくりと重なり、絡まり合い、小さな確信として結ばれていく。
 触れた手が伝える温もり。それはもう、ただの偶然じゃない。
 【第四章:触れた手が伝える温もり】(終)
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