触れた手から始まる恋

第七章:修学旅行中に見つけた一通の手紙

 朝霧に包まれた集落は、まるで物語の中に迷い込んだかのように静かだった。夜のざわめきがすっかり消え、鳥のさえずりと風に揺れる木々の音だけが世界を満たしていた。遠くで川の流れる音がかすかに響き、山に囲まれたこの土地が、長い年月を超えて今日までそこに存在していることを、静かに語りかけてくるようだった。
 堀田愛奈は、宿の縁側に置かれた木のベンチに腰を下ろし、熱いお茶の湯気をぼんやりと見つめていた。まだ完全には覚めていない頭の中に、昨夜の出来事がやわらかく反響している。あの恐怖も、ぬくもりも、言葉も、すべてが心の奥で静かに鳴り続けていた。
 目を閉じると、彼の腕の中にいた感覚がよみがえる。守られていたという実感。ただ優しくされるのではなく、自分という存在をまっすぐに見てくれる、そんなまなざしのぬくもり。そして、自分もまた、彼を想っていることに確信を持てた夜。
 「……もう、ちゃんと好きなんだな」
 思わずつぶやいたその声は、お茶の湯気とともに空に溶けていった。
 その日の午前中、社員全員で合掌造りの古民家を見学する研修が行われた。観光用として保存されている建物のひとつで、明治時代の生活様式をそのまま再現した造りになっていた。土間には囲炉裏があり、低い天井の梁には古い道具が吊るされていた。
 ガイド役の地元スタッフが、戦時中の話を交えながら案内をしてくれる。ふと、その話の中で「この家には、ある手紙が残されていましてね……」という言葉が出た。
 「当時、徴兵された青年と、彼を送り出した恋人が交わした手紙なんです。恋文というにはあまりにも真っ直ぐで、でも、それがまた……泣けるんですよ。今日だけ、特別にご覧いただけるようにしています」
 その言葉に、場の空気が少しだけ変わった。数人の社員が静かに顔を見合わせ、愛奈もまた、どこか胸を突かれるような気持ちになった。
 案内された部屋の隅には、ガラスケースに入れられた手紙があった。薄い和紙に筆で書かれた文字は、ところどころ掠れていたが、驚くほど丁寧だった。
 『君が夢を追うことを、私は止めない。けれど、君がその夢のために、私を忘れるなら、私はその夢を憎むことになるかもしれない。それでもなお、君がその道を選ぶなら、私は祈り続ける。どうか、後悔しないように。君の未来が、誰よりも幸せであるように』
 短い文面の中に、深い葛藤と、切ない願いと、計り知れない愛情が込められていた。愛奈は、その場から一歩も動けなくなっていた。ふいに胸の奥に、昨日の彼の言葉が重なってくる。
 「……僕は、過去を悔やんでばかりだったけど、今なら……」
 もしもあのとき彼が続きを言っていたら、それはどんな言葉だったのだろうか。
 展示室を出るとき、背後からそっと声をかけられた。
 「……あの手紙、俺もちょっと……ぐっときました」
 振り返ると、亮祐が立っていた。今日も少し寝癖のついた髪と、整えすぎないシャツのボタンの空き具合が彼らしくて、愛奈は自然と微笑んだ。
 「うん、私も。……すごく真っ直ぐだったよね。愛してるとか、好きだとか、そういう直接的な言葉がなくても、全部伝わってくる」
 「きっと、本気だったんですよね。どんな言葉よりも、行間にある気持ちで、全部」
 しばし沈黙が流れた。彼が懐からスマホを出して時刻を確認し、午後の予定まではまだ少し時間があることを告げる。
 「ちょっと、あの橋まで散歩しませんか? 昨日の夜、よく見えなかったけど、今なら川が綺麗に見えるって聞いたんです」
 「うん……行こっか」
 ふたりはまた自然と並んで歩き出した。合掌造りの家々を抜け、小川にかかる小さな赤い橋を渡る。川面は太陽の光を反射して、きらきらと揺れていた。風が頬を撫で、遠くから鳥の声が聞こえる。
 「あの手紙、たぶん……あの人は、“一緒にいられないとわかってて”、それでも書いたんだと思う。夢を追うって、そういうことだよね。何かを得る代わりに、何かを手放さないといけない」
 「……でも、その“手放す”のが、相手のことだったら?」
 愛奈は思わず問い返していた。声はかすれていたが、風に乗らずに、きちんと彼の耳に届いたはずだった。亮祐は、橋の中央で立ち止まり、しばらく水面を見つめていたが、ゆっくりと愛奈の方へ体を向けた。
 「そのときになったら、ちゃんと答えます。……自分の夢と、あなたのこと、どちらも諦めたくないと思ってる自分がいるから」
 真剣なまなざしが、まっすぐに心の奥を射抜いた。愛奈は、何も言えずにうなずいた。
 この人のそばで、自分も本気になりたい。夢を追いかける人を、手を伸ばして、支えていたい。たとえその道が苦しくても、きっと、それが自分の望んだ“本気の恋”なんだと思えた。



 橋の上を渡る風は、すっかり春の香りをまとっていた。寒さはほとんど消えて、光の中に含まれる柔らかなぬくもりが、肌にそっと触れてくる。川のせせらぎ、木々のざわめき、風に乗って流れてくる遠くの子どもたちの笑い声──どれもが、この静かな時間に優しく重なっていた。
 愛奈と亮祐は、橋の中央に並んで立ったまましばらく黙っていた。けれどその沈黙は決して気まずいものではなく、むしろ安心感に満ちていた。互いの存在を近くに感じながら、言葉にしない想いをただ静かに確かめ合う、そんな時間。
 「私……あの手紙を読んで思ったんです」
 愛奈はふいに、川面に視線を落としたまま小さく口を開いた。
 「“一緒にいられない”って、どうしてあんなにまっすぐ言えるんだろうって。好きだからこそ、そばにいたいのに。それを分かったうえで、送り出すって、すごく、苦しいはずなのに……」
 そう呟きながら、自分の言葉が誰に向かっているのか、愛奈はもう分かっていた。目の前にいる彼を思っていた。彼がいつか、遠くへ行ってしまうかもしれない未来のことを、すでにどこかで覚悟しようとしている自分がいた。
 「僕……その手紙の送り主に、すごく共感してました。きっとあの人、自分に言い聞かせるように書いたんじゃないかな。“これでよかったんだ”って。でも本当は、最後まで迷ってたと思います。選びたくなんか、なかった」
 亮祐の声は、風の音にかき消されそうになるほど静かだった。けれどその分、心の底から出た言葉が、まっすぐに愛奈の胸に届いた。
 「……私、たぶん、同じ立場だったら、きれいに割り切れないと思う。夢のことも、あなたのことも、どっちも諦められない。どっちかを手放すって、怖すぎて……きっと泣いちゃう」
 そう口にしてから、自分でも驚いた。こんなに素直に、想いを言葉にすることができたのは、亮祐と出会ってからだった。彼の存在が、自分を少しずつ変えていった。そのことが、今では誇らしかった。
 「泣かせたくないです」
 亮祐は一歩、愛奈の前に出た。そして、橋の欄干に両手を軽く添えながら、まっすぐに彼女の目を見つめた。
 「僕も同じです。どっちも欲しいって、わがままなのかもしれないけど……それでも、あなたの手は離したくない。夢を追うことも、あなたと向き合うことも、全部大事なんです。どちらかを選ばなきゃいけないって思っていたけど、違うかもしれないって、今は思う」
 言葉の途中で、彼の声がわずかに震えた。それがどれだけ本気の言葉なのかを示していた。
 「……ごめんなさい。こんな話、まだ早いですよね」
 「ううん、うれしい。……だって私も、同じこと考えてたから」
 愛奈はそう言って、小さく笑った。口元がほんの少し震えていたけれど、それもまた彼の目には美しく映ったに違いない。
 ふたりの間にあった、曖昧な関係。それが今、静かに、でも確かに動き始めていた。ただの上司と部下じゃなく、ただの研修旅行の仲間でもない。言葉にするにはまだ早いけれど、それでもお互いの心の形が見え始めていた。
 そのまま川沿いを歩いて宿へ戻る途中、ふたりは少しだけ手を触れ合った。まるで自然に重なったかのように、何の合図もなく指と指が絡む。愛奈は驚きながらも、すぐに握り返した。指先から伝わる体温が、心の奥にまで届いてくる。
 「この手、忘れないでいてくださいね」
 そう言った彼の言葉が、風に乗って耳に残った。
 「忘れないよ。……絶対に」
 午後、宿を出て駅へと向かうバスの中でも、ふたりは隣同士に座っていた。車窓から流れる田園風景に、ぽつぽつと花を咲かせる木々が揺れていた。合掌造りの集落が遠ざかっていく景色を、愛奈はゆっくりと目に焼き付けた。
 心に残った一通の手紙。それは過去の誰かが残した、愛と祈りの証。そして今、自分の心にも同じように、誰かを想う気持ちがしっかりと根づいていた。言葉にするにはまだ不安がある。でも、彼の手を取ったこの感覚だけは、揺るがない。
 何十年後、もしも誰かがこの旅のことを聞いたなら──自分はこう言うかもしれない。
 「大切な人の手を、初めて“自分の意志で”握った日だったんです」
 その言葉がいつか笑って言える日まで、きっとふたりで、少しずつ歩いていける。
 【第七章:修学旅行中に見つけた一通の手紙】(終)
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