触れた手から始まる恋

第八章:暗闇の花束

 四月の終わり、東京の空は少しだけ不機嫌だった。昼過ぎから雲が広がり、雨が降るでもなく、晴れるでもなく、空気が湿ってどこか重たい。そんな曖昧な空の下、堀田愛奈はオフィスの窓際で資料を閉じ、ふぅと小さく息を吐いた。
 合掌造りの集落での研修旅行から戻ってきてから、もう一週間が経っていた。あの時間は、どこか夢の中の出来事のように淡く、けれど確かに彼女の中に残り続けていた。夜の森での再会、橋の上で交わした言葉、そして指先で感じたぬくもり。日常の中に戻ってからも、ふとした瞬間にそれらが浮かび上がってきて、愛奈の心を静かに揺らしていた。
 「堀田さん、お昼行きませんか?」
 ふいに声をかけてきたのは夏菜恵だった。いつものように笑っているが、どこか探るような目をしている。愛奈は軽く首をかしげながら、手帳を閉じて立ち上がった。
 「行こう。なんか、気分転換したかったところ」
 ふたりで歩くオフィス街の昼休みの風景は、どこか穏やかだった。道沿いの街路樹は若葉をつけ、カフェのテラスには風に髪をなびかせた女性たちの笑い声が響いている。
 「で、さ。そろそろ白状してくれてもいいと思うんだけど」
 「なにが?」
 「合掌造りの夜。あの森のあと。……正直に言って、なにか“あった”でしょ?」
 愛奈は吹き出しそうになった。やっぱり気づいていたか、と思いながら、素直に頷いた。
 「うん……まあ、あったかな。怖くて泣きそうだったときに、亮祐さんが……じゃなくて、加藤さんが助けに来てくれて。……すごく、安心した。で、そのあと、いろいろ話して……うん、ちょっとだけ、お互いの気持ちが近づいたかも」
 言葉にするのが照れくさくて、「ちょっとだけ」と付け加えたが、本当は「すごく近づいた」と言いたいくらいだった。
 「へぇ……で?」
 「で?」
 「そこから進展あったの? それとも、お預け?」
 「……まだ、たぶんお預け」
 「ふーん……ってことは、次の“何か”が勝負ってことね」
 愛奈はその言葉に、ふと考え込む。次の“何か”。そんなタイミング、あるんだろうか。研修旅行のような特別な状況ではない、東京の日常のなかで、そんなきっかけが。
 そしてその“何か”は、その日の夜に、思わぬ形で訪れることになる。
 夜。定時で退社した愛奈は、いつものように駅前のスーパーで野菜と牛乳を買い、自宅マンションへと戻った。オートロックを解除してエレベーターに乗り、自室のドアを開けたとき、ふと異変に気づいた。
 電気が点かない。
 あれ、と首をかしげながらスイッチを何度か押すが、部屋は真っ暗なまま。ブレーカー? それとも停電? スマホの懐中電灯をつけてブレーカーボックスを確認するが、問題はなさそうだった。
 (なんで……)
 暗闇の中、何が原因かを考えながらリビングに足を踏み入れた瞬間、目の前に“何か”が立っていた。
 「──きゃっ!?」
 思わず声が漏れた。心臓が跳ねる。とっさにスマホのライトを向けると、そこにいたのは──
 「加藤さん……?」
 「びっくりさせてすみません。……でも、サプライズって、こういうもんだって、ネットに書いてたので」
 部屋の中央に立つ亮祐は、両手に抱えるようにして、ひと抱えの花束を持っていた。濃いピンクのチューリップ、白い小さなスプレーバラ、そしてかすみ草が混ざった、春の夜にぴったりの優しい花々。暗がりの中でも、花はかすかに光を帯びているように見えた。
 「え、なんで……?」
 「誕生日ですよね、今日」
 愛奈は息を呑んだ。忘れていたわけではない。けれど、誰かに覚えられていると思っていなかった。
 「……でも、どうして?」
 「研修のとき、こっそり夏菜恵さんから聞きました。あの子、わかりやすいですね。“いいタイミングで渡してあげてください”って、言われて」
 愛奈の胸がじんわりと熱くなる。誕生日を、誰かに覚えてもらっていたこと。しかも、わざわざサプライズまで用意してくれていたこと。全部があたたかくて、目の奥が熱くなる。
 「サプライズって、苦手なんですよ。本当は、普通に“おめでとう”って言って渡すつもりだったんです。でも、どうしても今日、ちゃんと伝えたくて。……堀田さん、誕生日おめでとうございます」
 手渡された花束は、想像よりもずっと重くて、でもその重さが心地よかった。胸に当てると、花の香りがふわりと広がった。部屋はまだ暗いままだったけれど、その瞬間だけは、自分の周囲だけ明るくなったような気がした。
 「……ありがとう。ほんとに、びっくりした。でも、すごくうれしい……」
 言葉が震えていた。涙がこぼれる寸前で、愛奈はぎゅっと唇を噛みしめた。
 「……本当は、今日伝えようと思ってたことが、もうひとつあるんです」
 亮祐はそう言って、ゆっくりと愛奈の目を見た。けれどその言葉の続きは──



 暗がりの中でふたりきりという状況に、少しずつ目が慣れてくる。スマホのライトがソファのあたりをぼんやり照らし、そこにいる亮祐の顔が、まるで夢の中の登場人物のように柔らかく浮かび上がっていた。
 「……伝えようと思ってたこと?」
 愛奈は、花束を胸に抱えながら、少しだけ身を傾けるように問い返した。声がいつもよりも小さく、まるでこの空間に響かせるのが惜しいとでもいうように慎ましかった。
 亮祐は、目を伏せたまま、ひとつ呼吸を置いた。
 「僕、堀田さんのことが、好きです」
 愛奈の心臓が一気に跳ね上がった。その音が、この狭い部屋のなかに響きそうなほど、大きく。
 「……でも、それを言うには、まだ早いのかもしれないって、ずっと思ってました。部下と上司って関係だし、今のこの距離感が壊れるのが怖かった。だけど──あの森であなたを見失いかけたとき、はっきりわかったんです。僕は、あなたのいない未来を想像できない。どんなに順調に夢を追えても、あなたがそばにいないなら、それは……空っぽです」
 部屋の明かりがなくても、彼の瞳がまっすぐこちらを向いているのがわかった。言葉はどれも、飾りのない本物の気持ちだった。息を吸うのも忘れて、愛奈は彼の声に聞き入っていた。
 「今すぐに“恋人”になってくださいって、そんなことは言いません。でも、ちゃんと知っておいてほしいんです。僕はあなたの笑顔が好きで、真剣な顔も好きで、頑張り屋なところも、時々不安そうになるところも、全部含めて……好きになってしまったんです」
 愛奈は胸に抱いていた花束を少しだけ下ろし、そのままソファに腰を下ろした。しっかりと彼の顔を見ようとして、スマホのライトを彼の膝元に置き、間接照明のように部屋を照らした。
 「……じゃあ、ひとつ、聞いていいですか」
 「……はい」
 「もしも私が、“夢を一緒に見たい”って言ったら、迷惑ですか?」
 亮祐はその瞬間、わずかに息を呑んだ。そして、笑った。ほんのわずかだけ涙ぐんだように、優しく、安堵の滲んだ笑顔だった。
 「……迷惑なんて、そんなわけないです。そんなこと、言ってもらえたら……どんな夢でも、一緒に見られる気がします」
 言葉の代わりに、愛奈は花束をテーブルに置き、そっと亮祐の手に触れた。静かに、指先で確かめるように重ねた手。合掌造りの家の前で、初めて握ったときと同じ、けれどもっと深く、もっと柔らかな温もりがそこにあった。
 「私、ずっと何かを避けるように生きてきた気がします。失敗も、感情も、誰かに踏み込まれることも。でも加藤さんに出会って、私も変わりたいって思えるようになりました。……本気で何かを始めてみたいって、そう思えたのは、あなたがいたからです」
 亮祐は、そっと手を握り返した。そして、慎重に距離を詰め、愛奈の目を覗き込んだ。
 「まだ、はじまったばかりですけど……これからも、ちゃんと向き合っていけたら嬉しいです」
 「……うん。私も、そう思います」
 ふたりの手が触れ合う場所から、じんわりと熱が広がる。言葉にしなくても、確かに伝わる想いがそこにあった。明かりがなくても、ふたりだけの世界が、こんなにも明るく感じられることに、愛奈は自分でも驚いていた。
 ふと、タイミングを見計らったように、部屋の電気がふわりと点いた。一瞬、明るさに目が慣れず、ふたりは同時に瞬きをした。復旧した電気に照らされた花束が、テーブルの上でふんわりとその存在を主張していた。
 「……タイミングよすぎない?」
 「……これも、きっと誰かが仕組んだんですよ。いや、たぶん偶然ですけど」
 ふたりで同時に笑った。やわらかく、照れくさく、でも確かに幸せを分かち合うように。
 「じゃあ……改めて、お誕生日おめでとうございます、堀田さん」
 「ありがとう、加藤さん……いえ、亮祐さん」
 その名前を呼んだ瞬間、彼の表情が一瞬驚いたように和らぎ、それからふわりと笑った。何度見ても、彼の笑顔は不器用で、まっすぐで、そして……とてもあたたかかった。
 【第八章:暗闇の花束】(終)
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