触れた手から始まる恋
第九章:全ての証拠が揃う瞬間
ゴールデンウィーク明けの月曜日、オフィスに吹き込む空気はほんの少しだけ重たかった。連休明け特有のけだるさだけではなく、社員たちの間に目に見えない緊張感が漂っていた。誰もが何かを気にしているような、妙な沈黙が時折流れる。
堀田愛奈はその空気を肌で感じながらも、机に向かい淡々と作業を進めていた。先週のサプライズ以降、亮祐との関係は言葉にしなくてもはっきりとした輪郭を持ちはじめていた。まだ正式に恋人と呼ぶには距離があるかもしれないが、互いの気持ちが通じ合っているという実感が、心を満たしてくれていた。
けれど、今朝のオフィスにはそれとはまるで異質なざわめきがあった。
それが“明確なもの”になったのは、午前十時を少し回った頃だった。
「堀田さん、ちょっとよろしいですか」
課長に呼ばれ、愛奈は資料を手に会議室へと入った。そこには管理部の職員と、法務の担当者が顔を揃えていた。胸騒ぎが、ほんの小さな棘のように心をかすめる。
「実は……先週納品されたクライアント向け企画書の一部に、他社資料の転用と思われる箇所が見つかりまして」
言われた瞬間、愛奈の頭が真っ白になった。内容を確認すると、たしかに自分が扱った資料だった。だが、その部分は最終チェック段階で上層部の手によって挿入された追加情報であり、愛奈はその出典を知らなかった。
「すぐに確認します。でも、私は……」
「堀田さん、今はただ、事実確認を進めていますので」
その言葉の言い回しが、どこか“疑われている”ことを示していた。
会議室を出たあとも、足がふらつくほど動揺していた。何もやましいことはしていない。けれど、仕事の信頼は“疑われた”という一点だけで簡単に崩れてしまうものだ。同僚たちの視線が気になって仕方がなかった。
昼休みになっても食欲は湧かず、愛奈は屋上へと逃げるように向かった。ビルの上から見る東京の空はいつもより低く、雲が重く垂れ込めていた。
背後から近づいてくる足音。振り返ると、そこには亮祐がいた。
「……話は聞きました」
彼はそう言って、ポケットから取り出した資料のコピーを見せてきた。
「僕なりに、社内データと照合して調べてみました。あのページ、愛奈さんが最初に作った案にはなかった内容です。加筆されたのはその後。……僕の上の役職の人間が、“あえて”差し込んだものかもしれません」
愛奈はその言葉に驚いた。
「……じゃあ、私は……」
「問題ないはずです。だけど、それを証明するには、社内ネットワークの記録や修正ログ、メールのやり取りなど……正式な手順で調査する必要がある。僕が、動きます」
言い切ったその言葉に、彼の本気がこもっていた。職務上、上司に該当する人間を調べることは、彼にとって決して簡単なことではない。それでも「動く」と言ってくれたその覚悟に、胸が熱くなった。
「……でも、加藤さんまで巻き込んだら」
「巻き込んでるんじゃない。僕が、守りたいからやるんです」
風が吹いた。ビルの上の空気は冷たく、けれどその言葉はどこまでもあたたかかった。
「僕、仕事に関してはずっと自信がなかった。何をやっても中途半端で、空回りしてばかりで。でも、今は違うんです。愛奈さんと一緒にプロジェクトを進めるようになってから、初めて自分の仕事に誇りを持てるようになった。だからこそ、あなたを疑うようなやり方を、見過ごすわけにはいかない」
言葉が、胸にしみた。震える指先をぎゅっと握って、自分を保とうとした。こんなときに泣くなんて、情けない。そう思っていたのに、目の奥が自然と熱くなる。
「……ありがとう。私、ちゃんと信じてくれる人がいて、ほんとうに救われてる。……誰に何を言われても、あなたの言葉があるだけで、前を向ける」
そのときだった。スマホが震え、通知を確認した愛奈の顔色が変わった。
「……社内調査で、追加の聞き取りが始まるみたい。これから私、行かなきゃ」
「大丈夫、行ってください。……僕も、別ルートで動きます。必ず、証拠を揃えますから」
彼のまなざしが、強くまっすぐに注がれていた。守るために戦う人の目だった。
愛奈は深く一度だけ頷いて、その場を後にした。
小会議室の硬い椅子に座り、目の前に並べられたモニターと資料、そして複数の視線を受けながら、愛奈は背筋を伸ばして答えた。担当の法務スタッフが淡々と質問を重ねるたびに、できるだけ冷静を装って応じていたが、体の奥ではずっと張り詰めた弦のような緊張が響いていた。
自分が潔白だということは、本人が一番よくわかっている。けれど、その証明を求められる状況が、どれほど心を疲弊させるか、今日初めて実感していた。第三者の視線の下で、自分のすべてを見られているような感覚。少しの言い回しの誤差でも信頼を損なうかもしれない。そんな恐怖。
愛奈は資料の最後のページをめくったとき、ふと、亮祐の顔を思い出した。屋上で交わした言葉。私が動きます──あの声が、今も胸の奥にしっかりと残っている。
「……本件について、確認すべき情報は以上となります。引き続き、社内のログとファイル改変履歴について確認を進めます」
調査担当者の言葉とともに、空気が少しだけ緩んだ。愛奈は静かに一礼し、会議室を出た。エレベーターホールまでの廊下を歩く足取りは軽くはなかったが、それでもどこか、信じてくれている人がいるという安心感が足元を支えていた。
その日の夕方、部署のフロアに戻った愛奈を出迎えたのは、ざわめきと低い歓声だった。何事かと目を向けると、サブマネージャーのデスク前に人が集まっていた。普段は静かな職場に、妙な緊張と好奇の入り混じった空気が流れている。
同僚のひとりが愛奈の方に駆け寄ってきた。
「堀田さん、加藤さんが……すごいことしたって……!」
「え……?」
愛奈が人の間をかき分けて進むと、そこに立っていたのは亮祐だった。手には分厚くまとめられた資料。彼は上司と正面から向き合い、力強い口調で説明を続けていた。
「この改変ログとメール記録を見てください。堀田さんの最終提出時点では、問題の記述は存在しません。その後、社内上層部のひとりが外部資料を引用した形で内容を追加していたことが、記録上明らかです」
資料のコピーが複数人に回され、担当者のひとりが顔色を変えてメモをとり始めた。
「私がこれを調べたのは、彼女のためというだけではありません。この部署全体の信頼と、誠意ある仕事の在り方を守るためです。どんなに小さなミスでも、それを誰かのせいにするような組織にだけはしたくありません」
その声は、愛奈の耳にすべて届いていた。上司の前であれほど真っ直ぐに話す亮祐の姿は、彼女がこれまで見たどんな彼よりも力強く、美しく思えた。
その日の終業時刻前、愛奈のデスクに一本の内線が鳴った。出ると、法務担当者からだった。
「堀田さん、調査の件ですが、正式に“あなたに責任はない”と判断されました。関係各位には後ほど通知されます。ご心労をおかけして申し訳ありませんでした」
電話を切った後、愛奈はしばらくその場に立ち尽くしていた。肩の力が抜け、ようやく深く息を吐くことができた。心の奥底に張り詰めていたものが、するするとほどけていく感覚。
気づけば、自然と視線が向かったのは、オフィスの端にある亮祐の席だった。彼はもう帰る準備をしていたのか、ネクタイをゆるめ、ジャケットを手に持っていた。その背中が、今まで以上に頼もしく見えた。
愛奈はデスクの引き出しを閉め、書類を整えて立ち上がった。
「……加藤さん」
呼びかけると、彼は驚いたように振り返った。
「話、聞きました。……ありがとう。本当に……ありがとう」
「当然のことをしただけです。むしろ、もっと早く気づいて動けていれば、あなたをこんなに不安にさせることもなかったのに」
「ううん、違うの。あなたが、あのとき“信じる”って言ってくれたから、私は最後まで自分を保てた。……守られたって、初めて思えたの。仕事でこんな気持ちになったの、初めてで……」
亮祐はしばらく黙って彼女の言葉を受け止め、それから少しだけ距離を詰めた。そして、誰にも見えないようにそっと彼女の手を取った。
「……よかった。本当に、無事でよかった」
静かに、でも確かに伝わってくる温もり。愛奈は目を伏せたまま、ゆっくりとうなずいた。信じてもらえること。守ってもらえること。それがどれほど強く、温かいものかを、今日という日に心の底から知った。
この人となら、きっとこれからも困難を乗り越えていける──そう思えた。恋はきっと、ただの甘さだけじゃない。こうして支え合える関係こそが、本当の意味での“ふたり”の始まりなのかもしれない。
【第九章:全ての証拠が揃う瞬間】(終)
堀田愛奈はその空気を肌で感じながらも、机に向かい淡々と作業を進めていた。先週のサプライズ以降、亮祐との関係は言葉にしなくてもはっきりとした輪郭を持ちはじめていた。まだ正式に恋人と呼ぶには距離があるかもしれないが、互いの気持ちが通じ合っているという実感が、心を満たしてくれていた。
けれど、今朝のオフィスにはそれとはまるで異質なざわめきがあった。
それが“明確なもの”になったのは、午前十時を少し回った頃だった。
「堀田さん、ちょっとよろしいですか」
課長に呼ばれ、愛奈は資料を手に会議室へと入った。そこには管理部の職員と、法務の担当者が顔を揃えていた。胸騒ぎが、ほんの小さな棘のように心をかすめる。
「実は……先週納品されたクライアント向け企画書の一部に、他社資料の転用と思われる箇所が見つかりまして」
言われた瞬間、愛奈の頭が真っ白になった。内容を確認すると、たしかに自分が扱った資料だった。だが、その部分は最終チェック段階で上層部の手によって挿入された追加情報であり、愛奈はその出典を知らなかった。
「すぐに確認します。でも、私は……」
「堀田さん、今はただ、事実確認を進めていますので」
その言葉の言い回しが、どこか“疑われている”ことを示していた。
会議室を出たあとも、足がふらつくほど動揺していた。何もやましいことはしていない。けれど、仕事の信頼は“疑われた”という一点だけで簡単に崩れてしまうものだ。同僚たちの視線が気になって仕方がなかった。
昼休みになっても食欲は湧かず、愛奈は屋上へと逃げるように向かった。ビルの上から見る東京の空はいつもより低く、雲が重く垂れ込めていた。
背後から近づいてくる足音。振り返ると、そこには亮祐がいた。
「……話は聞きました」
彼はそう言って、ポケットから取り出した資料のコピーを見せてきた。
「僕なりに、社内データと照合して調べてみました。あのページ、愛奈さんが最初に作った案にはなかった内容です。加筆されたのはその後。……僕の上の役職の人間が、“あえて”差し込んだものかもしれません」
愛奈はその言葉に驚いた。
「……じゃあ、私は……」
「問題ないはずです。だけど、それを証明するには、社内ネットワークの記録や修正ログ、メールのやり取りなど……正式な手順で調査する必要がある。僕が、動きます」
言い切ったその言葉に、彼の本気がこもっていた。職務上、上司に該当する人間を調べることは、彼にとって決して簡単なことではない。それでも「動く」と言ってくれたその覚悟に、胸が熱くなった。
「……でも、加藤さんまで巻き込んだら」
「巻き込んでるんじゃない。僕が、守りたいからやるんです」
風が吹いた。ビルの上の空気は冷たく、けれどその言葉はどこまでもあたたかかった。
「僕、仕事に関してはずっと自信がなかった。何をやっても中途半端で、空回りしてばかりで。でも、今は違うんです。愛奈さんと一緒にプロジェクトを進めるようになってから、初めて自分の仕事に誇りを持てるようになった。だからこそ、あなたを疑うようなやり方を、見過ごすわけにはいかない」
言葉が、胸にしみた。震える指先をぎゅっと握って、自分を保とうとした。こんなときに泣くなんて、情けない。そう思っていたのに、目の奥が自然と熱くなる。
「……ありがとう。私、ちゃんと信じてくれる人がいて、ほんとうに救われてる。……誰に何を言われても、あなたの言葉があるだけで、前を向ける」
そのときだった。スマホが震え、通知を確認した愛奈の顔色が変わった。
「……社内調査で、追加の聞き取りが始まるみたい。これから私、行かなきゃ」
「大丈夫、行ってください。……僕も、別ルートで動きます。必ず、証拠を揃えますから」
彼のまなざしが、強くまっすぐに注がれていた。守るために戦う人の目だった。
愛奈は深く一度だけ頷いて、その場を後にした。
小会議室の硬い椅子に座り、目の前に並べられたモニターと資料、そして複数の視線を受けながら、愛奈は背筋を伸ばして答えた。担当の法務スタッフが淡々と質問を重ねるたびに、できるだけ冷静を装って応じていたが、体の奥ではずっと張り詰めた弦のような緊張が響いていた。
自分が潔白だということは、本人が一番よくわかっている。けれど、その証明を求められる状況が、どれほど心を疲弊させるか、今日初めて実感していた。第三者の視線の下で、自分のすべてを見られているような感覚。少しの言い回しの誤差でも信頼を損なうかもしれない。そんな恐怖。
愛奈は資料の最後のページをめくったとき、ふと、亮祐の顔を思い出した。屋上で交わした言葉。私が動きます──あの声が、今も胸の奥にしっかりと残っている。
「……本件について、確認すべき情報は以上となります。引き続き、社内のログとファイル改変履歴について確認を進めます」
調査担当者の言葉とともに、空気が少しだけ緩んだ。愛奈は静かに一礼し、会議室を出た。エレベーターホールまでの廊下を歩く足取りは軽くはなかったが、それでもどこか、信じてくれている人がいるという安心感が足元を支えていた。
その日の夕方、部署のフロアに戻った愛奈を出迎えたのは、ざわめきと低い歓声だった。何事かと目を向けると、サブマネージャーのデスク前に人が集まっていた。普段は静かな職場に、妙な緊張と好奇の入り混じった空気が流れている。
同僚のひとりが愛奈の方に駆け寄ってきた。
「堀田さん、加藤さんが……すごいことしたって……!」
「え……?」
愛奈が人の間をかき分けて進むと、そこに立っていたのは亮祐だった。手には分厚くまとめられた資料。彼は上司と正面から向き合い、力強い口調で説明を続けていた。
「この改変ログとメール記録を見てください。堀田さんの最終提出時点では、問題の記述は存在しません。その後、社内上層部のひとりが外部資料を引用した形で内容を追加していたことが、記録上明らかです」
資料のコピーが複数人に回され、担当者のひとりが顔色を変えてメモをとり始めた。
「私がこれを調べたのは、彼女のためというだけではありません。この部署全体の信頼と、誠意ある仕事の在り方を守るためです。どんなに小さなミスでも、それを誰かのせいにするような組織にだけはしたくありません」
その声は、愛奈の耳にすべて届いていた。上司の前であれほど真っ直ぐに話す亮祐の姿は、彼女がこれまで見たどんな彼よりも力強く、美しく思えた。
その日の終業時刻前、愛奈のデスクに一本の内線が鳴った。出ると、法務担当者からだった。
「堀田さん、調査の件ですが、正式に“あなたに責任はない”と判断されました。関係各位には後ほど通知されます。ご心労をおかけして申し訳ありませんでした」
電話を切った後、愛奈はしばらくその場に立ち尽くしていた。肩の力が抜け、ようやく深く息を吐くことができた。心の奥底に張り詰めていたものが、するするとほどけていく感覚。
気づけば、自然と視線が向かったのは、オフィスの端にある亮祐の席だった。彼はもう帰る準備をしていたのか、ネクタイをゆるめ、ジャケットを手に持っていた。その背中が、今まで以上に頼もしく見えた。
愛奈はデスクの引き出しを閉め、書類を整えて立ち上がった。
「……加藤さん」
呼びかけると、彼は驚いたように振り返った。
「話、聞きました。……ありがとう。本当に……ありがとう」
「当然のことをしただけです。むしろ、もっと早く気づいて動けていれば、あなたをこんなに不安にさせることもなかったのに」
「ううん、違うの。あなたが、あのとき“信じる”って言ってくれたから、私は最後まで自分を保てた。……守られたって、初めて思えたの。仕事でこんな気持ちになったの、初めてで……」
亮祐はしばらく黙って彼女の言葉を受け止め、それから少しだけ距離を詰めた。そして、誰にも見えないようにそっと彼女の手を取った。
「……よかった。本当に、無事でよかった」
静かに、でも確かに伝わってくる温もり。愛奈は目を伏せたまま、ゆっくりとうなずいた。信じてもらえること。守ってもらえること。それがどれほど強く、温かいものかを、今日という日に心の底から知った。
この人となら、きっとこれからも困難を乗り越えていける──そう思えた。恋はきっと、ただの甘さだけじゃない。こうして支え合える関係こそが、本当の意味での“ふたり”の始まりなのかもしれない。
【第九章:全ての証拠が揃う瞬間】(終)