海に凪ぐ、君の名前
廊下は静まり返っていて、足音だけがやけに響く。

父さんの書斎の前に立つと、重たい扉の向こうから微かに灯りが漏れていた。

コンコンと、二回ノックをする。

「凪希です」

扉を開けると、父さんは接待用のソファに腰を下ろしていた。

(ん?)

父さんは、いつも奥の机でパソコンを操作しているのに。

「座れ」

そう言って、向かいのソファを指す。

俺が腰を下ろすと、父さんは無言のまま、指を組んでいる。

短い沈黙が落ちる。

いつもの父さんらしくない。どうしたんだ?

父さんは険しい顔で俺を見た。

「凪希」

改まったような口調に背筋がのびる。

はい、と短く答える。

「この前、凪未とお前が似ているという話をしたな。覚えているか?」

その言葉に、胸の奥がぴくりと動いた。

あの時のことを思い出す。

たしかに父さんはそう言った。でも、俺が聞いたら、父さんは曖昧に笑ってそのまま話を終わらせたんだ。

(あれのことか…)

ずっと引っかかっていた言葉だった。思わず少し身を乗り出す。

「覚えています。似ているって言うのは、どういう、」

いつも厳しく結ばれた口が柔らかく動いた。

「この前、『敷かれたレールをぶっ壊したい』と言ったろう?」

父さんの表情が、ふっと柔らいだ。

眉も目尻もわずかに下がり、唇が優しく横に伸びる。遠い何かを思い出しているような、静かな笑みだった。

(父さんのこんな顔、初めて見る…)

父さんから目を離せない。

「そうでしたっけ…」

ぼーっと曖昧に答える。

「その言葉、昔の凪未と全く同じでな」

父さんはそこで言葉を切った。

窓の外へ視線を向ける。

夕方の光が横顔に差し込み、その目は今まで見たことがないほど遠くを見ていた。

俺の胸が、どくりと鳴る。

(父さんが……母さんの話をしてる)

今まで、父さんが母さんのことをこんなふうに語ることは全くなかった。

俺は思わず息を潜める。

父さんはしばらく黙ったまま、遠い記憶をなぞるように目を細めた。そして、ゆっくりと口を開く。

「凪未と出会ったのは、家同士のお見合いだった。家を継ぐことも結婚相手すらも決められていた俺に『私は自分の意思であなたと結婚するって決めたんだ』って笑ったんだ」

暖かな目でふっと笑う。

遠い遠い昔の硝子玉のような日々を優しく撫でるような目だ。

「美しい外見で乱暴な言葉遣いをしていて、無邪気に未来を見ていた。ほんとにそっくりだよ、見た目も中身も。…俺は凪未の強さに惹かれて、俺の意思で結婚を申し込んだんだ」

父さんの意思。強い言い方に圧倒される。

「凪未が妊娠してその子供が男の子だと分かったとき、…可哀想に思ってしまったんだ」

「可哀想?」

話を遮ってはいけないと思ったけど、思わず口に出してしまう。

父さんは俺をチラリとだけ見て、「ああ」と小さく頷いた。

「お前は、俺と同じ長男だろう?まだ凪未の腹の中にいるこの子は、もう未来が約束されてしまったのだと思った。俺が沖野家の男じゃなければこの子は自分の希望に向かって歩めたのではないか、と」

父さんのこんな話を聞くのは、はじめてだ。

あの厳粛さからは想像出来ない。

「それって…本当なのか?」

だって、父さんは俺を次期社長の跡取りだとしか見ていなかったじゃないか。

今更そんな話聞いたって、感動よりも疑問が浮かぶ。

「本当だよ」

そう言って、ははっと笑う。

いや、笑える状況か?

「じゃあ、なんだったんだよ、今までの態度。俺のこと、跡継ぎとしか考えていなかったよな。申し訳ないだなんて思ってるようには全く見えなかったぞ」

父さんは彫りの深い顔に影を落とす。

悪いことを言ったとは思わない。父さんの言うことは、矛盾しているんだ。だから、疑問を持ったんだ。

まずいことを言ったとしても、それ以上に意味がわからないのは父さんだ。

聞くべきタイミングで聞くべきだ。

「なあ、答えろよ!」

そう急かすと、父さんは苦い顔をする。

そんな顔をするような思いをしてきたのはこっちだ。

怒りがふつふつとわく。同時に、父さんを責める気持ちがわく。

父さんはそこで言葉を切る。

「凪希が産まれて、凪未約束したんだ。凪希を、跡取りとして“縛らない”と」

喉が詰まる。

「でも、俺はずっと、跡継ぎとして育てられてきたぞ」

声が震える。

父さんは、ゆっくりとこちらを見る。その目は、初めて見るほど疲れていた。

「ああ」

短く答える。

小さく息を吐く。空気が重たくなるみたいだ。

「母さんが病で倒れたろう?医者からは、もう時間はないと聞いていた」

あの時のことは、幼いながらも覚えている。

暖かな手が、枝のように細くなる。抱きついたらふらつく程に軽い身体。青白い肌に弱々しく笑顔を貼り付けた顔。

「あの時、母さんに言われたんだよ」

窓から差し込む日が強くなる。

父さんの顔が逆光で見えない。

「なんて…」

「凪希はどんな未来を歩むか分からない。だけど、周りをよく見ることのできる綺麗な心をもっている。この子は、きっと社長として沖野を希望に導くことができるはずだってな」

父さんの瞳には、光が灯っている。

その笑顔は、まるで俺を信じて、暖かく笑う母さんとそっくりだ。

「そのまま、仕事が忙しくなって、凪未とはその続きを話すことないまま死別した。でも、凪未が最後に希望を持った凪希の未来だけは…守りたかったんだ」

目には後悔が滲む。それをみて、胸がざわつく。

父さんがこんなに自分の内側のことを話すなんて初めてだ。

「でも、凪未との最初の約束を忘れていたのかもしれないな」

母さんが初めに望んだこと、それは俺を普通の子供として育てること。でも、死に際に立った時、母さんは俺は社長に向いてるといった。

父さんは、最後の母さんの願いを叶えようとしたのかもしれない。

「お前に“選ばせる”ことができなかった。やり方も間違えた、言葉も足りなかった」

父さんは一度、目を閉じた。

「そのせいで、凪希を追い込んでしまった」

そして、体を折った。

「っ…え!」

「父さん、凪未がいなきゃ本当にダメだな。…ごめんな、凪希」

父さんの背中が、いつもより小さく見えた。

額がローテーブルについてしまいそうなほど下がっている。

今まで一度も見たことがない姿だった。

沖野の社長として、誰よりも真っ直ぐ背を伸ばしていた人。いつも遠くて、冷たくて、近寄れなかった人。

その人が、俺に頭を下げている。

胸の奥で、何かがぎしりと音を立てた。

怒りなのか、戸惑いなのか、自分でも分からない。

ずっと言いたかった言葉が、喉の奥で渦を巻く。

責めたかった。どうして俺を、跡継ぎとしてしか見てくれなかったんだって。

でも、目の前にいるのは、社長じゃない。

ただの、父親だ。

肩が、わずかに震えている。

それを見た瞬間、胸の奥の固いものが、少しだけ崩れた。

(この人も……)

迷っていたのかもしれない。

俺と同じように。

俺はゆっくりと息を吐いた。

手のひらに、知らないうちに力が入っている。

気づいて、そっと力を抜く。

「…顔、上げろよ」

自分でも驚くくらい、静かな声だった。

父さんはすぐには動かなかった。

しばらくして、ゆっくりと顔を上げる。

その顔を見て、胸が少し痛んだ。

こんな表情、初めて見た。

後悔と、恐れと、どこか祈るような目。

俺は少しだけ視線を逸らした。

まだ、全部を許せたわけじゃない。

今までのことが、全部消えるわけでもない。

だけど、

「俺、父さんにずっと…」

喉の奥が熱くて、声が詰まる。

「ずっと、父さんに認めてほしかったんだ」

ぽつりと落ちた言葉に、自分で驚く。

怒りより先に出てきたのが、その言葉だったからだ。

父さんの目が、わずかに揺れる。

俺は小さく笑った。

うまく笑えているかは分からない。

「今さら謝られると、調子狂うわ」

風が窓を揺らす音だけが聞こえた。

それから、俺はもう一度父さんを見た。

「でも、ちゃんと話しきけて嬉しかった」

胸の奥に残っていた固い塊が、静かにほどけていく気がした。

完全に消えたわけじゃない。

だけど、確かに形は変わった。

父さんは、しばらく何も言わなかった。

ただ、深く息を吐いて、眉を下げて曖昧に笑った。

不器用だけど、きっと父さんの本当の笑顔だ。

「この間、彼女を守りたいと言ったな」

父さんは俺を真っ直ぐに見た。

確かに言った。想良を守りたい、と。

「お前が軽い覚悟で言っているなら止めるつもりだった。俺みたいに相手のことも傷つけてしまうから」

視線は、俺を射抜く。

「…だが、お前は俺と違うな」

心臓が、強く打つ。

父さんはジャケットを着直して、ネクタイを整えた。

「約束してくれ」

「約束?」

「彼女に迷惑がかからないようにすること。沖野にこれ以上火の粉が飛ばないようにすること。そして——」

一歩、距離が縮まる。

「“沖野”と彼女を背負う覚悟ができたと胸を張って言える日まで、彼女の未来を縛るな」

言葉が重い。

でも、重圧じゃない。

「うん、支えるよ、彼女のこと。守るんじゃなくて」

守るのではなく、支える。

守るは上からだ。支えるは、同じ高さだ。

父さんはわずかに頷く。

身体が熱くなる。

「次期社長としては、頼りないが。男としては、悪くない」

軽く肩を叩く。

「本当にお前は、名前の通りに育ったな」

「え、名前?」

聞いたことない、名前のことなんて。

聞く前に母さんは死んだし。

「お前の名前は、凪未から一文字変えて凪希にしたんだ」

「っえ…父さんが付けてくれたのか?」

思わず声が裏返る。

俺はずっと、母さんが付けた名前だと思っていた。

母さんの形見みたいなものだと、勝手に思い込んでいた。それで、俺を縛る呪いだとも。

「ああそうだよ」

少し照れくさそうに視線を逸らした。

「凪未が“凪”の字を気に入っていてな。台風が過ぎたあとのあの穏やかな海の水面が好きだって言っていた」

静かな海。

波も立たず、空をそのまま映す水面。

「だから俺は、その“凪”を残したかった。凪未の一部を、お前の中に残すみたいでな」

胸の奥が、じん、と熱くなる。

「それで“希”を足した」

父さんは、ゆっくり言葉を選ぶ。

「凪未のような強さと優しさがある人。その美しい水面に、たくさんの夢を映し続けられる人。…そんな人間になってほしいと思ってな」

凪希。

胸の奥で、もう一度その名前を反芻する。

今まで、この名前は重かった。

静かな海みたいに、波も立てず、決められた未来をただ受け入れて生きる存在なんじゃないかって。

だから、凪であることが、俺を締め付けていた呪いだった。

でも、父さんの込めた意味は違うんだ。

「“希”はな、希望の希だ」

父さんはまっすぐ俺を見ていた。

「お前が、自分の希望を見つける人間になるようにってつけた」

胸の奥が、ぎゅっと掴まれる。

呪いだと思っていたものが、
ゆっくりとほどけていく。

凪希。

それは、静かな海に閉じ込める名前じゃない。

希望を映す海になる名前だった。

(それを、父さんが、俺に…?)

名前は、母さんが考えてくれたものだとばかり思っていた。

父さんはゆっくりと息を吐いた。

「こういうのも言うべきだったよな、ごめんな」

俺は首を横に振る。

謝られてばかりだと、逆に居心地が悪い。

少し間が空いたあと、俺は父さんを見た。

「…父さんに、頼みがある」

父さんの眉がわずかに上がる。

「なんだ」

俺は一度だけ深く息を吸った。

胸の奥がざわつく。さっきまでとは違う緊張だ。

でも、逃げる気はない。

「彼女のことだ」

父さんの表情が変わる。

厳しい社長の顔じゃない。ただ、息子の言葉を待つ父親の顔だった。

父さんは黙って聞いている。

その沈黙に押されそうになりながらも、俺は続けた。

窓から入る夕方の光が、部屋を少し赤く染めていた。

俺はまっすぐ父さんを見る。

「頼みたいのは_____」
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