海に凪ぐ、君の名前
「ねえ、凪希くん」

「なに?」

髪が風に煽られて舞う。

彼女の目には涙が溜まっていて、俺はぼーっと「ああ、綺麗だな」と場違いにも思ってしまう。

「私、嘘、つかなくてもいいのかなあ?」

瞬きすると一筋、頬を伝う。

声が涙に揺らぐ。

思わず、彼女の手を引いた。

よろけた彼女を胸に受け止める。

腕のなかで小さく震える彼女を強く抱き締める。

「俺の前なら」

想良の睫毛が、わずかに震えた。

海から吹く風が、二人の間を静かに抜けていく。

波の音だけが、遠くで繰り返されていた。

「…監督との密会して主演貰ったやつ、あれ、全然ほんとの事じゃないんだ」

その声は、さっきまでの強さとはまるで違った。

「うん」

「監督が楽屋に挨拶に来た時、確かに、そういう誘いは受けたの」

「うん」

「その時、急に手を引かれて、よろけたところを写真に撮られた。…でも、オーディションで受け直して、それで受かったの…これは、ほんとなの」

空気が揺らぐ。

そんな必死に言わなくったって、

「俺は、ずっと想良を信じているよ」

それを聞いて、少し複雑そうな顔をして俯くそして、彼女はすっと息を吸って口を開いた。

「私ね、“想良”じゃないんだ」

「どういうこと?」

クスクスと笑う。

ああ、この笑顔。いつも見ていたあの笑顔だ。

海を優しく撫でるように見つめる横顔も、見慣れている。

「本当は、ウミって名前なの」

「ウミ?この海?」

そう言って、目の前に広がる景色を指さす。

「あー…音は一緒だけど漢字は違うよ。美しい羽って書いて、羽美(うみ)」

「由来は…?」

思わずポツリと言葉がこぼれる。

想良___いや、羽美はゆっくりと口を開く。

「この海のように、広い心と深い思いやりのある子になってほしいって、昔、お母さんに言われたな」

綺麗な横顔。宝石で言えば、エメラルドだ。

「ホントの私はすごく弱いし、黒い気持ちだって持ってる。『美しい』って漢字使ってるくせに、全然綺麗じゃないの。羽美である自分は、本当に醜くて大っ嫌いだった」

「いや、…」

「だから、芸名は想良にした。みんなから好かれるはずない私が、みんなの上でいつも明るく笑ってるような空になりたかった。空はみんなが見上げてくれるからね」

水平線を優しく撫でる目。

夕日が沈みかけて、頬が赤く染まるように見える。

「でも、凪希くんってば、初めて会った時も江ノ島の時も海ばっかり見るんだよ」

ふっと息を漏らして、目を細める。

「君を初めて見た時、羽美とそっくりだなあって思ったんだ。表面だけは上手く繕おうと必死なところが特に似てた」

そういえば、初めて話しかけてきた時、『心が、空っぽみたいな顔』だって言われた。

それは、彼女自身がそうだったから言ってきたのか。

「でも、話してすぐに羽美と全然違うって分かった。君の方がよっぽど強くて、抗っていて、必死にもがいてた」

ふんわりとした陰が彼女の顔を覆う。

「そんなかっこいい君に、情けない私で話すのは恥ずかしくてさ。“想良”の演技して話してた。そのくせ、俳優してるってバレたくないとかずるいよね」

「あのさ」

遮っちゃいけないと思ったけれど、こぼれる。

「俺から見たお前は、全然、演技してたように見えなかったけどな」

「へ?」

どこか疑うようで、でも、ほんの少し期待している声だった。

俺は小さく肩をすくめる。

「俺、演技とか分かんないし、俳優でもないけど」

少しだけ間を置いて、彼女を真っ直ぐ見た。

「嘘ついて笑ってる人と、本当に笑ってる人くらいは分かる。ほら、俺がそうだからさ」

小さく笑う俺を、彼女は黙って見た。

夕焼けが海の上でゆらゆら揺れている。オレンジ色の光が、彼女の瞳に映っていた。

「お前は」

ゆっくり言葉を続ける。

「ずっと、羽美だったよ」

羽美の唇が、わずかに震える。

「そんなこと…」

「ある」

はっきり言い切ると、彼女は言葉を失ったように黙った。

風が強く吹いて、彼女の髪が頬にかかる。
それを払う仕草が、いつもより少しだけぎこちなかった。

「ただ楽しくて笑う。思ったことを言う。明るくて心が透き通ってる綺麗な子だと思っていたよ」

彼女は、少しだけ目を見開いた。

「…ほんとに?」

俺は少し笑う。

羽美はゆっくりと顔を上げる。

「私、嘘つきだよ。それでもいいの?」

「うん」

迷いはなかった。

むしろ、今までずっと言えなかったことが胸の奥から溢れそうだった。

俺は一歩、彼女に近づく。彼女の目が揺れる。

「俺は、」

心臓が、さっきよりもずっと大きく鳴っている。

息を吸う。

そして、ずっと胸の奥にしまっていた言葉を、ようやく外に出した。



「羽美が好きだ」



風が止まった気がした。

羽美の瞳が、ゆっくりと大きくなる。

「君の名前を俺は何度だって呼びたい」

喉が少し震えたけれど、それでも言葉は止まらなかった。

一歩、さらに近づく。

彼女の目をまっすぐ見つめる。

羽美の目から、ぽろりと涙が落ちた。

「変なの」

小さく笑いながら言う。

「変だよ、俺」

羽美は首を振った。涙を拭きながら、少し困った顔で笑う。

胸がぎゅっとなる。

こんな顔、初めて見た。

いつもテレビで見る彼女の笑顔でもない。“想良”の笑顔でもない。

ただの、羽美の笑顔だった。

胸の奥が熱くなる。

俺はゆっくりと手を伸ばした。

彼女の頬に触れる。羽美の瞳が揺れた。

そのまま、少しだけ顔を近づける。

羽美は一瞬だけ目を閉じる。

夕焼けの海の前で、俺は彼女の唇に触れた。

ほんの一瞬。

でも、胸が壊れそうなくらい高鳴る。

離れると、羽美は顔を真っ赤にしていた。

「い、いまの…」

「キス」

「わ、分かってるよ!」

思わず吹き出してしまう。

「笑うな!」

「ごめん」

でも、嬉しすぎて止まらない。

羽美もつられて笑い出す。

波の音が、静かに続いている。

夕日が、ゆっくり海に沈んでいく。

羽美はその景色を見ながら、小さく言った。

「ねえ、凪希くん」

「なに?」

「これからも、私のこと」

少しだけ照れた顔で振り向く。

「羽美って呼んでくれる?」

俺は迷わず頷いた。

「当たり前だろ」

そして、もう一度言う。



「羽美、だいすきだよ」



その名前は、夕暮れの海に溶けていった。

羽美は少しだけ目を細めて笑う。

「私も!」

まるで、本当に羽を広げたみたいに、やわらかい笑顔だった。

彼女に初めて出会った時、俺は、彼女を海の妖精かと思った。

それこそ、美しい羽を持ち、淡く笑う天使のような。

話せば話すほど、彼女には、海のように澄んだ心と深い思いやりがあることが伝わった。

海という響きと、美しい羽という漢字。

彼女はこの名前の為に生まれ、この名前もまた、彼女の為に生まれたのだと思うほどに、よく合っている。

海風が静かに吹く。

波が、何度も岸に寄せては返していく。

あの日、海ばかり見ていた俺に彼女が話しかけてくれて、本当によかった。

もしあの時、振り向かなかったらきっと俺は、この名前の呼び方を一生知らなかった。

潮の匂いが、やさしく漂う。羽美が俺の隣で笑っている。

その笑顔を見ながら、俺は静かに思った。

きっとこの先、色んなことがある。辛いことも、苦しいことも、たくさんあるだろう。

それでも、隣には、きっと彼女がいる。

そして彼女の名前を、何度でも呼ぶ。

___この海のように広くて深い人を、俺は、好きになったんだ。
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