両親と妹はできそこないの私を捨てました【菱水シリーズ①】
そこを知久が駆け上がり、見に行った。
だが、すぐに戻ってくる。

「いや、いないな。ここだと誰かを呼べるよな」

「確かに」

ホールの中で見ていない場所はもうここしかない―――

「二人とも静かに」

逢生が目を閉じた。
聴こえてくるのは出場者が演奏する曲の音だけ。
いや、違う、これは。

「聴こえる」

逢生はすっと目を開けた。
俺にも知久にもその音は聴こえていた。

「千愛だ」

すぐに誰が弾いているのかわかった。
ピアノの音がするほうへ近づくと、そこにはドアがあり、鍵がかかっていた。

「そういえば、そこの鍵がないって警備員の人が騒いでいました。今すぐマスターキーを持ってきます!」

女性スタッフが走って行った。
そのドアから微かに聴こえてくるのは。
サティのジムノペディだった―――彼女の中で特別な曲になっていた。
俺が彼女だけのために弾いたあの雨の日の曲。

「もう俺だけが特別に思っているわけじゃないんだな」

開かないドアに手を触れて、名前を呼んだ。

「千愛」

「唯冬!」

応えるように俺の名前を彼女が呼ぶ。
それは特別な音。
俺にとっては一番大切な音だ。
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