「逃げていいんだよ」と彼は言ってくれた。
「そこか」

 高坂さんが目の前のドアをドンドンと乱暴に叩く。ドアは壊れそうだった。

「や、やめて下さい。無理です。あと十個なんて浮かびません。今日は帰りたいんです。家に帰して下さい。彼が家に来るんです」

 涙声でそう訴えると高坂さんの笑い声が響いた。
 なんで笑われたのかわからない。

「そういえば藍沢の彼氏って、黒王堂(こくおうどう)加瀬(かせ)だろ?」

 ドキッとした。

「ど、どうして知っているんですか?」
「本人から聞いたんだよ。あいつ来月結婚するらしいぞ」

 ――結婚!

 そんなの私は聞いていない。いつプロポーズをされたっけ?
 驚いて、個室から飛び出ると、腰に手を当てたスーツ姿の高坂さんが立っていた。

「私はまだプロポーズされてませんけど」

 高坂さんがバカにするような笑みを浮かべた。

「相手はお前じゃない」

 
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