「逃げていいんだよ」と彼は言ってくれた。
 シナリオ講座の教室に入ると、すぐにグレーのパンツスーツ姿の赤井さんに掴まる。私を待ちかまえていたようだった。

「藍沢さん、どうだった?」

 キラキラした目で見てくる。

「どうって……」
「だから、春希の新作のこと」

 そうだった。そっちの件もあったんだ。
 先生の家まで行ったのに、切り出せなかった。それどころか、グースカと寝てしまい、結局、先生の家を出たのは翌朝だった。
 親には、見合いの後、友達の家に行くと伝えてあったから問題はなかったけど、先生にはかなり迷惑をかけた。そのことを思い出して胃がぎゅっと痛くなる。

「すみません。まだお願いできてなくて」

 赤井さんが両眉を上げて、えーっという顔をする。

「あの、次のシナリオ講座までには先生にお話ししますから」
「絶対よ」
「はい」

 赤井さんはがっかりしたように前の席に戻って行った。

「大丈夫?」

 大塚さんの隣に座ると心配そうに聞かれた。

「赤井さんに無理なこと言われているの?」
「いえ。そこまで無理なことでは」
「嫌だったらハッキリと言うのよ。藍沢さん、飲み込んじゃうところがあるから」

 大塚さんが一瞬、母親のように思えた。しかも、私をよくわかっている。

「心配してくれてありがとうございます。嫌なことじゃないんで大丈夫ですよ」
「それならいいんだけど」

 大塚さんが頬杖をつき、ため息をつく。
 何だか今日の大塚さん元気がない気がする。
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