「逃げていいんだよ」と彼は言ってくれた。
「こんばんは」

 教壇の前に立った先生が教室全体を見まわす。眼鏡越しの目が私の方に向く。視線が合うと、私に向かって微笑んだ。今度はキュッと胸が締め付けられて、カアッと顔中が熱くなり、先生の顔が見られなくなった。

 私、どうしちゃったの。なんか先生をいつも以上に意識している。こんなんじゃ、赤井さんに頼まれた話ができないし、お家に泊めてもらったお礼も言えない。落ち着け、私。これは恋じゃない。そう思うけど、講義を聞く余裕もなくなる程、動揺していた。

「藍沢さん」

 不意に先生に呼ばれてドキッとした。

「答えて下さい」

 え? 何を? 先生の話を全く聞いていなかったからわからない。
 受講生たちからの視線が私に注がれている。早く、何か答えなければ。

「えーと、わかりません」

 か細い声でそう言った瞬間、前列の女性たちが笑った。
 恥ずかしい。

「わらかないことを笑うのはよくないですよ。僕の質問の仕方が悪かったようですね」

 先生は全然悪くない。

「聞いていなかった私が悪いんです。あの、もう一度質問をお願いします」

 思い切って顔を上げて先生を見ると、先生は穏やかに微笑んだ。
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