雨と妖精に導かれて ──御曹司CEOからの溺愛ラビリンス

【第15章『手を振る影の正体』】

 夏の陽射しがじりじりと石畳を焼いていた。
  浅草寺の参道は、休日のにぎわいを前にしてもなお、どこか古き良き時間の流れを守っていた。
  浴衣姿の観光客たちの笑い声、風に揺れる風鈴、香ばしい人形焼の匂い。
  そのすべてが、東京の喧騒とは異なる、心地よい“間”を刻んでいた。
 美里は、その境内にひとり立っていた。
 なぜ、ここへ来たのか。
  それは、朝届いた一本のメッセージがきっかけだった。
 ──《お話ししたいことがあります。午後、浅草寺にて。お時間いただけませんか?》
  ──《有栖川会長秘書・彩果》
 彼女の名前は、以前から聞いていた。
  泰雅の父に仕える冷徹な秘書であり、古くから一族に仕える女性。
  それはつまり、今ここで呼び出された理由も、容易に想像がついた。
 「美里さんですね。」
 声がした。
  振り向くと、和装を着こなした涼しげな女性がそこにいた。
  年齢は三十代後半、背筋がすっと伸び、凛とした雰囲気を纏っている。
 「初めまして、有栖川会長の秘書を務めております、彩果と申します。」
 「……お目にかかれて光栄です。」
 「こちらこそ。……少し歩きながら、お話ししませんか?」
 ふたりは並んで、浅草寺の裏手へと向かって歩き出した。
  人通りの多い参道を離れたその道は、どこか物語の“間奏”のような静けさを宿していた。
 「突然お呼び立てして、失礼しました。」
 「いえ、こちらこそ光栄です。」
 「少し、個人的な質問になりますが……あなたは、泰雅様の“隣に立つ覚悟”を、お持ちですか?」
 正面から投げかけられたその問いに、美里は一度立ち止まり、そしてまっすぐに彩果の瞳を見返した。
 「……はい。私はまだ未熟ですが、彼の隣にいるために、変わる努力をしています。」
 「そうですか。」
 彩果は頷きつつ、ふっと目を細めた。
 「……実は、あなたをここに呼んだのは“確認”のためではありません。」
 「……?」
 「“手を振る影”について、何か思い当たることはありませんか?」
 その言葉に、美里は心臓が跳ねるのを感じた。
 「え……」
 「あの日、あなたと泰雅様が銀座で初めて再会されたとき、彼の背後に“誰かが手を振っていた”という報告があったんです。」
 「まさか……」
 「それが“偶然”ではないとすれば。――あなたの過去と、彼の未来が“もうひとつの線”でつながっている可能性があります。」
 美里は、思わずペンダントに手を伸ばした。
 「……なぜ、それを私に?」
 「私は、あなたが泰雅様に“必要な人”であるかどうかを試すつもりなどありません。」
 彩果は、言葉を柔らかく続けた。
 「私は、有栖川家を誰よりも理解しているつもりです。そして、誰よりも“彼に幸せになってほしい”と願っている者でもあります。」
 その瞬間、美里の中で、これまでの誤解が静かにほどけていく音がした。
 「あなたが真に泰雅様の未来に必要な存在であるのなら、私は全力で支えます。」
 美里はそっと頷いた。
 「ありがとうございます……私も、彼の“未来”を一緒に築いていけるように、強くなります。」
 風が吹いた。
  風鈴が鳴り、陽射しがわずかに柔らいだ。
 彩果はふと歩みを止め、美里に小さな木箱を差し出した。
 「これを、受け取ってください。“心をつなぐ鍵”に、もうひとつの意味が込められていることを、いつかあなた自身で確かめてください。」
 その手が、静かに美里の掌に触れた瞬間――
  何かが、深く、美しく、音もなく重なった気がした。



 美里は木箱を受け取ったまま、しばらくその感触を確かめるように両手で包んでいた。
  細やかな彫りが施された蓋には、小さな花の模様が浮かび、中央には見覚えのあるモチーフ――“鍵穴”が彫られていた。
 「これは……?」
 「その箱は、かつて泰雅様の母上が大切にされていたものです。」
 彩果の声は、過去を丁寧に掘り起こすように静かだった。
 「生前の彼女は、この箱に“未来を開く鍵”を収めていたと聞いています。中身は空です。けれど、“誰が開けるか”が重要だった。」
 「誰が……開けるか、ですか?」
 「はい。あなたが、それを選ばれたということです。」
 風がまたひとつ、木々を揺らした。
  蝉の声が、夏の盛りを告げるように遠くから響いてくる。
 「……私は、その“選ばれた”に値する存在なのか、まだ分かりません。」
 「分からなくて当然です。でも、“選ばれたから努力する”という生き方も、あると思います。」
 彩果の言葉に、美里はふっと息を吐いた。
  何かが、ふわりと心の奥からほどけていく感覚。
  それは、これまで感じていた“立場の差”や“見えない重圧”が、少しずつ形を失っていくような、不思議な安堵だった。
 「ありがとうございます……彩果さん。」
 その呼び方に、彩果は初めて柔らかく微笑んだ。
 「彼は不器用な人です。でも、信じた人のためなら、すべてを懸ける覚悟がある。……それを支える人には、並の覚悟じゃ足りない。でも、あなたならきっと。」
 「……はい。私、彼と出会って、変わってきました。まだ道の途中ですが、これからも歩いていける気がしています。」
 ふたりの間に、確かな絆が芽生えたような沈黙が流れた。
 そのとき、不意に背後から名前を呼ぶ声が届いた。
 「美里!」
 振り返ると、そこには泰雅の姿があった。
  炎天下の中、上着を脱ぎシャツ姿で駆けてくる彼は、どこか普段よりも必死で――
 「よかった……」
 息を切らせて彼女の前に立ったその顔に、確かな安堵の色があった。
 「ごめん、心配になって……急に“呼び出された”って聞いて……」
 「大丈夫です。彩果さんは、敵じゃありませんでした。」
 美里のその一言に、泰雅は驚いたように彩果を見た。
 「父さんの意志かと思った。」
 「いえ、これは私個人の判断です。……彼女の“覚悟”を、確かめる必要があっただけです。」
 「……そうか。」
 泰雅は美里の手をとり、しっかりとその指を絡める。
 「改めて言うよ。俺はこの人を守る。その気持ちは、誰が相手でも変わらない。」
 「……はい。」
 美里もまた、力強くうなずいた。
 ふたりを包むように、夏の陽光が降り注ぐ。
  照り返す石畳の光が、まるで“ふたりを祝福している”かのようだった。
 そして、美里の手の中にある木箱が、ほんのわずかに温かく感じられた。
 それはきっと、もう一つの“鍵”の物語が、動き始めた証――
  ふたりの絆が、目に見えぬ“過去”と未来を静かに繋ぎ始めていた。
 【第15章『手を振る影の正体』 終】
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