雨と妖精に導かれて ──御曹司CEOからの溺愛ラビリンス

【第16章『運命の再会』】

 麻布十番の夜は、他の街とは一線を画す独特の落ち着きを纏っていた。
  喧騒ではなく、静かな気品。
  明るすぎないネオンと石畳、老舗の和菓子屋と新進のフレンチが並ぶこの街には、特別な夜を約束する空気が漂っている。
 美里が連れてこられたのは、そんな街の奥に佇む隠れ家バーだった。
  木製の重厚な扉の先には、間接照明に照らされたシンプルでモダンなカウンター。
  そこに先に来ていた泰雅が、グラスを片手に立っていた。
 「待たせてしまってごめんなさい」
 「ううん、君の顔を見られたら、それだけで十分だよ」
 その一言で、今日の疲れがすっと溶けていく気がした。
  ふたりが席につき、簡単なオードブルを注文し終えたところで、店の扉が再び開いた。
 「……お、お待たせ……?」
 その声に、美里が驚いて振り返った。
 「あ……多央?」
 そこに立っていたのは、美里の大学時代の同級生・多央だった。
  涼しげなスーツ姿に身を包んだ彼は、以前と変わらぬ優しい笑顔を浮かべていた。
 「まさか、こんな再会があるなんて思わなかったよ」
 「私も……こんな偶然、あるんだね」
 「いや、実は……今、ここのデザイン担当をしていて。たまたま会食の流れで立ち寄ったら、君の声が聞こえてきて」
 「え……すごい偶然……!」
 その様子を、泰雅が静かに見守っていた。
  しかし、その目の奥にはかすかに揺れる影があった。
 「紹介しよう。泰雅さん、こちらは大学時代の同級生で……」
 「多央です。お噂はかねがね……今日はご一緒させていただけて光栄です」
 泰雅は軽くうなずく。
 「こちらこそ。美里の“過去”を知る人と会えるのは、新鮮ですね」
 その一言に、美里はドキリとした。
  “過去”という響きが、ふたりの間に妙な緊張を走らせたように感じた。
 泰雅がグラスに口をつけ、少しだけ目を細めた瞬間、美里の中にわずかな不安がよぎった。
 ──まさか、嫉妬……?



 グラスに注がれた琥珀色の液体が、照明の揺らめきに合わせてきらめいた。
  泰雅は一見冷静を装っていたが、美里にはわかっていた。
  いつもより口数が少なく、視線の間に微かな緊張が走っていることに。
 多央はそんな空気を和らげようと、大学時代の思い出話を始めた。
 「そういえば、美里って昔、学食のナポリタンしか食べてなかったよね」
 「やめてよ、それ言うの……恥ずかしい……」
 「いや、毎回“今日こそ違うの頼む”って言いながら、結局ナポリタン。あれが君のルーティンだったなあ」
 「違うの、あのケチャップの甘さが安心感で……」
 そんなやりとりに、自然と笑みがこぼれる。
  しかし、泰雅のグラスが一瞬だけ音を立てた。
  ごく微かに、それは“苛立ち”の音だった。
 「……懐かしい話ですね。そういう美里さんを、俺は知らなかった」
 その言葉に、美里はハッとした。
 「泰雅さん……?」
 「いや、悪い意味じゃない。ただ、君のことを全部知っている気になっていたのかもしれないなと思って」
 「……そんなことないです」
 美里は、泰雅の手に自分の手を重ねた。
 「私だって、あなたのすべてを知っているわけじゃない。だから……知っていきたいです、これから」
 その一言に、泰雅の表情がほんのわずかに緩んだ。
 「ありがとう。……君の“過去”に嫉妬してた。くだらないと思いながらも」
 「くだらなくないです。私は……泰雅さんの“心が動いた”ことが、嬉しい」
 多央は少しだけ席を外すふりをして、ふたりに時間を与えた。
  その気遣いが、美里の胸を温かくさせた。
 やがて、夜が深まる。
  多央が店を後にする時、静かに泰雅にこう告げた。
 「あなたは強い人ですね。でも、美里さんの笑顔は、守られるより“分かち合う”ことで輝くと思う。……どうか、それを忘れないで」
 その言葉に、泰雅はしっかりと目を合わせて頷いた。
 「約束します。俺のすべてで、彼女と向き合うことを」
 多央が去ったあと、二人は再び並んで夜の麻布十番を歩いた。
 「……ごめんなさい、気を使わせてしまって」
 「いや。むしろ、感謝してる。君の“過去”も含めて、愛おしくなった」
 美里はそっと彼の腕に寄りかかった。
 「“運命の再会”って、きっと、意味があるんですね」
 「そうだな。君を選んでよかったって、改めて思わせてくれる夜だったよ」
 ふたりの影が、街灯の下でゆっくりとひとつに重なっていく。
  それは、過去と現在と未来が、穏やかに交差する“運命の再会”の夜だった。
 【第16章『運命の再会』 終】
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