雨と妖精に導かれて ──御曹司CEOからの溺愛ラビリンス

【第6章『心をつなぐ鍵』】

 銀座の夜は、どこまでも静かだった。
  高層ビルのネオンも、週末の賑わいを終えて今は穏やかな灯りを残すだけ。
  その中心に位置する、泰雅の本拠地――有栖川ホールディングス本社ビルの最上階は、夜10時を過ぎてもなお、ぴたりと張り詰めた空気を纏っていた。
 その広々とした会議室に、泰雅は一人座っていた。
  ガラスの壁越しに広がる銀座の夜景を背に、グラスには開けたばかりのスコッチが揺れている。
  けれど、その視線は机の上の一枚の資料に釘付けになっていた。
 「……今か。」
 手元の書類には、社長就任に関する正式承認案が載っていた。
  先代――つまり泰雅の父であり、現会長の名が記された承認欄には、すでに朱い印が押されている。
  社内合併を含む大規模改革、その舵取りを任せるに足ると判断された証。
 しかし、そこに押された判の裏には、見えない“意図”が重なっていた。
 「君が本当に愛を貫くつもりなら、まずは立場で証明してみせろ。」
 それが父の言葉だった。
  すべてを懸ける覚悟があるならば、恋などという私情を乗り越えて“企業家”として立て、と。
  まるで愛と責任を天秤にかけて試すかのような、その物言いが、今でも胸に棘のように刺さっていた。
 「会長の言葉に、意外と従順なんだな。」
 声が響いたのは、部屋の奥のバーカウンターからだった。
  グラスを片手に現れたのは、怜聖――泰雅のビジネスパートナーであり、親友でもある男だ。
 「聞いてたのか。」
 「当然。俺にも関係あるだろ?」
 彼はゆったりと歩み寄ると、カウンター越しにウイスキーを注ぎ、ため息混じりに言った。
 「CEOの座を受けるってことは、あの会長の庇護を外れて、一人で海に出るってことだ。君が思ってる以上に、波は高い。」
 「分かってる。」
 「その上で……美里さんのこと、本気なんだな?」
 泰雅は一瞬だけ表情を曇らせた。
  そしてすぐに、強い目で怜聖を見返す。
 「本気だよ。……彼女といると、俺は“生きてる”って感じるんだ。」
 怜聖はグラスを傾けながら、ほんの一拍、目を伏せた。
 「なら、応援するよ。ただし、甘く見るな。今の会社には君のことを“御曹司”としか見てない連中がまだ多い。敵は、社外じゃなく社内にいる。」
 「それも分かってるつもりだ。」
 「一つだけ、釘を刺す。」
 「……?」
 「金銭感覚の甘さを、恋の言い訳に使うなよ。」
 泰雅は、ふっと小さく笑った。
 「……耳が痛いな。」
 「自覚があるならいい。」
 怜聖はそう言って立ち上がり、扉の前で振り返った。
 「君が変わることで、彼女の世界もきっと変わる。……それを忘れるな。」
 泰雅はしばらく無言のまま、彼の言葉の余韻を感じていた。
  そして、目の前の書類に再び視線を落とし、ペンを取る。
 「変わってやるさ。美里にふさわしい男になる。」
 強く、しなやかな筆致でサインを記す。
  それは、“愛”を守るための人生最大の賭けだった。
 その翌日。
 銀座の静かなバー『Rin』で、美里は少しだけ緊張した面持ちでグラスを手にしていた。
  マスターが淹れてくれたハーブティーの香りが、店内にゆるやかに漂っている。
 「今夜、ひとつ伝えたいことがあって。」
 泰雅がそう切り出した瞬間、美里の胸はきゅっと縮まった。
  ──まさか、別れ話?
  ──それとも、遠くに転勤でも……?
 不安が胸をよぎる。
 「……俺、正式にCEOになることが決まった。」
 「え……!」
 驚きで目を見開く美里に、泰雅はまっすぐに続ける。
 「君と出会って、俺の人生は変わった。だから、今度は俺が、変わった姿で君の隣に立ちたかった。」
 「そんな……私、あなたにそんな大きな決断をさせてしまったんですか……?」
 「逆だよ。君がいなければ、俺は“守る理由”を見つけられなかった。」
 その言葉に、美里は、はじめて涙を堪えられなかった。
 ──私は、この人の“力”になれていたのだろうか。
  ──ただ見つめていたこの時間が、彼の背中を押していたのなら。
 「おめでとうございます……」
 震えながらそう呟くと、泰雅がそっと、美里の手を取り、何かを手のひらに載せた。
 「……これ。」
 小さなペンダント。
  鍵の形をした、繊細な銀細工。
 「“心をつなぐ鍵”って言うんだ。……俺の母が、生前使っていたものを加工してもらった。」
 「えっ……?」
 「君の手で、未来を開けてほしい。俺の心を、これからも。」
 美里はもう、何も言えなかった。
  胸に溢れる想いが、熱い涙となって頬を伝う。
 夜のバーには、言葉では表せない温度が満ちていた。
  銀座の灯の下、ひとつの“鍵”が、ふたりの未来をそっと繋いだのだった。
 【第6章『心をつなぐ鍵』 終】
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