蜜味センチメンタル

歩き出してすぐ、那色はそっと息を吐いた。白く染まる吐息が、夜の冷たい空にふわりと消えていく。

街灯の下、静かな夜道。ただ歩いているだけなのに、胸の奥がざわざわと騒いで仕方なかった。

あの男はやはり、羅華の“過去”の男だ。

一緒にいた時間の空気。
交わされた言葉の温度。
何より羅華のあの、少しだけ戸惑ったようなまなざし。

すべてが、何かを物語っていた。

けれど、彼女は何も言わなかった。言えなかったのか、言いたくなかったのか、それすら分からない。


——……怖い

こんなにも、羅華のことが好きなのに。
彼女の手を取って、一緒に歩いているはずなのに。
知らない“過去”があるというだけで、自分の足元がぐらりと揺らいでしまう。

けど、それでも。

胸の奥から、何かがじわりとせり上がってくる。

——それでも、渡せない

たとえ羅華の心に、まだ誰かの影が残っていたとしても。
たとえその男が、彼女にとってかけがえのない存在だったとしても。

今、隣にいるのは自分だ。

一緒に笑って、食事をして、寒い夜を温め合って。
そのすべてを重ねてきたのは、他でもない、自分なのだ。

その証を、手放したくなんかない。彼女が過去を抱えているのなら、未来は自分が守りたい。

強く、まっすぐに。

あの日、母を亡くしてから空いたままだった心の穴を、羅華があたたかく満たしてくれた。
だから今度は自分が、彼女の心の隙間を埋める番だ。

——……絶対に、渡さない。

この想いだけは、誰にも負けない。

寒風が吹き抜ける帰り道。
けれど、那色の胸の奥には、確かな火が灯っていた。

それは静かで、けれど消えない
羅華を想う、真っ直ぐな光だった。
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