隠れ御曹司の恋愛事情(改稿版)
外回りが終わって、会社に戻ったのは夕方の五時近く。
あと三十分で定時になる。
どうやって花咲さんを食事に誘おう?
昨日も食事に誘うシミュレーションを何度もしたのに、誘うギリギリの時間になっても最良の道がないか考えてしまう。
(ドキドキする)
いや、ドキドキというかバクバク?
胃から心臓が飛び出そうだ。
とりあえず花咲さんに声を掛けよう。そして、会議室で来週分にやってほしい見積もりをお願いしてから、食事に誘おう。
(ああ、緊張する)
こんなに緊張するのは人生で初めてじゃないか?
手のひらにはぐっしょりと汗が溜まっている。
これでは格好がつかない。せめて、コーヒーでも飲んで、落ち着いてから行くことにするか。
そう思った僕は廊下の途中にある給湯室に入ろうとした。けれど、そこで女性社員が喋っている声が聞こえて立ち止まる。
(誰か居るなら、寄るのは止めとくか)
こればかりはタイミングだ。仕方ない。
そのまま通り過ぎようとしたその時。彼女達が『花咲さん』のことを話し始めたものだから、気になって足を止める。
「花咲さんばっかり桐山さんと喋っていてズルいよね」
「それね」
「だって、他の女の子が桐山さんと話したいって橋渡しをお願いしたら、花咲さん断ったんでしょ?」
「うん。受付の子から聞いた!」
「結局、花咲さんは桐山さんを独占したいんだよ!」
「ほんとズルいよね」
「花咲さんも良い年だから焦っているのかな?」
「でも、桐山さんが相手する訳なくない?」
「だよねー。高望みも良いとこでしょ」
……は? ズルい? なんだよそれ……!
苛立ちで目の前が真っ赤になる。
花咲さんはただ僕の仕事を補佐しているだけだ。なのになんでそれが分からない?
花咲さんに頼む筋合いなんかない。なんで、そんなことを言われなきゃいけないんだ。
(そもそも、僕のせいか?)
僕が花咲さんと関わりを持とうとしたから、彼女が咎められている。
だいたい、花咲さんから雑談を振られたことはほとんどなかった。
それは僕に関わりたくない、という意思表示ではないのか?
(僕は、馬鹿だ……)
初めての恋に浮かれ過ぎていた。だからこんな失敗をしてしまった。
不用意に近付いて、彼女を傷付けるくらいなら、関わるべきじゃなかったんだ。
奥歯を噛み締めて、廊下を歩く。
その足取りは先程とは比較にならないくらいに重かった。