隠れ御曹司の恋愛事情(改稿版)



 あれから二ヶ月が過ぎた。

 玲くんは本社に戻り、わたしは違う人の補佐役になった。
 来月の桐山くんの誕生日に結婚することを決めていて、なにもかもが順調だった。


(今日玲くんがロンドンから帰ってくるんだっけ?)

 本社に戻ったことで彼は海外に出張することが増えた。
 会えない時間は増えたけど、変わりに彼の部屋の合鍵を渡されている。
 彼が帰ってくる時は、玲くんの部屋で過ごすことが多い。

(とはいっても、もう少しで一緒に暮らせるんだけどね)

 結婚生活が、今からが楽しみだ。
 彼との生活を想像するだけで、子供のようにわくわくしながら、マンションに向かう。

 本社に戻ったことで、彼が今住んでいるマンションは違う場所に変わっていた。
 タワーマンションの高層階。以前、一般的な普通のマンションに住んでいたのは、会社の人に見られた時のためのものらしい。
 見られなくても、総務には自分の住んでいる場所の書類を提出しなければならないので、そこに住んでいたのだと彼は言っていた。



***


 マンションに入ろうとすると、入り口の前で一人の女性が立っていた。
 黒髪が似合う色白な女性。華奢な体躯はまさに男の人が守ってあげたくなるような儚さだ。
 しかしわたしと目が合うと、その表情が一変する。
 黒目がちの瞳が怒気を露わに険しい眼差しでこちらを睨む。


「貴女が……」

 ずんずんとこちらにやって来る彼女に、わたしは呆然と見ていた。
 あっという間に距離を詰めた彼女が、烈火の勢いで怒鳴る。

「貴女のせいで!」

 甲高い声に耳がキンと痛む。
 怒っている様子の彼女に問いかける。

「あの、人違いではないですか?」

 知り合いでもない人に突然怒鳴られても、困惑しかない。
 眉を顰めて尋ねれば、早口で捲し立てられる。

「人違いじゃないわ。だって貴方が玲と結婚するんでしょう?」

 ああ、なんだ。玲くんの知り合いか。
 若手女子社員に嫌われていたせいで、目の前の彼女が怒っていても怖いという感情は抱かなかった。それよりも、なぜ彼女がわたしの前に現れたのかが気になる。

「わたしに何か用ですか?」

 一歩足を前に踏み出して、彼女と対峙する。
 身長差の関係から小柄な彼女を見下ろす形になると、彼女がよりきつくわたしを睨み付けた。

「玲と結婚するのはわたしだったのに」

 ああ、やっぱりという気持ちで、目を眇める。
 玲くんの知り合いがわざわざわたしの元へ訪ねるなんてその目的は一つしかない。
 花形家は二十八までに結婚相手を自分で見つけられなかった場合、家の決めた相手と結婚しなければならない。
 目の前に居る彼女はその候補者だったのだろう。


「わたしと、わたしと結婚する予定だったのに。なんで背が高いだけの地味な女と結婚するのよ!」

 興奮して捲し立てる彼女にわたしはゆっくりと口を開いた。

「でも、玲くんが貴女と結婚すると言っていたんですか?」

 わたしと結婚することを明言してから見合いの釣書は届いていない。

(確かに玲くんと付き合う頃にお見合いの釣書が何冊も届いていたけど……)

 もし、彼女と結婚することが濃厚だったら、あそこまでの釣書が届くだろうか。
 わたしが反撃するとは思っていなかったのか悔しそうに奥歯を噛み締める。

「貴女に何が分かるって言うのよ! 家柄も容姿も、全然私の方が上じゃない!」

 彼女の手が高く振り払われる。打たれるのだ。そう思ったわたしは目を瞑って、咄嗟の衝撃に耐えようとした。
 けれど、その衝撃はいつまで経ってもやってこない。
 怪訝に思って、そろりと目を開けると、玲くんが彼女の腕を掴んで止めていた。

「え……」

 彼が姿を現したのが意外だったのか、彼女の瞳が大きく見開く。その様子を玲くんは冷たい眼差しで見下ろしていた。

「何をしているんです?」
「えっと、これはその……」

 さきほどまでの勢いはどうしたのだろう。
 彼の登場によって、すっかりと勢いを潜めている。
 じり、と彼女の足が後ろに下がる。だけど、玲くんは彼女の手を捉えて離さない。


「三島家の長女まどかさんですよね」
「ええ、そうです」

 彼の言葉にほんの一瞬。彼女の目が輝く。名前の確認をされただけなのに、表情が明るくなった様子から、彼との関係性が薄いものだと分かる。

「貴女の行動は三島家が関わってのことですか?」
「それは……」


 厳しい口調での追求に、彼女がたじろぐ。
 彼女を見下ろす双眼からは凍てついた氷のような冷ややかさで、静かに蓄積された怒気を露わにしていた。

「花形家の婚約者に対しての仕打ちーーぜひ双方の家に報告させて貰います」
「ひ……。やめてください」

 ガタガタと彼女が震える。
 しかし彼は、彼女の手を離したものの、一切の容赦はなかった。

「駄目ですよ。ここで貴女を見逃せば、他にも僕の婚約者を軽視しても良いという女性が現れるかもしれない。僕それが許せないんですよね」

 低い声音で断罪を告げようとする。
 それを止めたのはわたしだ。

「玲くん。わたしは無事だから……」
「ですが、今日はたまたま僕が早く帰ってきたから止められただけのことじゃないですか! このまま放置しておけば、またいつこんなことが起こるか分かったものじゃない」 


 不機嫌さを隠そうともしない彼に、わたしは首を横に振る。
「貴方の婚約者って、ずっと守って貰わないといけないほどに弱いの?」

 わたしの言葉にハッと彼は目を見開く。
 それに気付きながら、ゆっくりと語りかける。

「わたしをそんな風に弱いって思わないで。それくらい自分の力で乗り越えてみせる」

 ハッキリと告げれば、彼は唇を噛み締めた。

「玲くんはわたしと彼女が話していたところは見ていた?」
「……はい」
「じゃあ、その時。わたしは怯えて縮こまっているように見えた?」


 グッと言葉に詰まった様子の彼に、意識して笑いかける。

「あんまりわたしを舐めないで。ちゃんと自分の足で立って、生きてきたんだから。もし困ったことがあったら、玲くんに相談するよ。でも今はその時じゃない。この先もこんなことが何度もあるなら、やっぱり自分の力で乗り越えなきゃいけないと思うから」

 もう一度彼女の前に対峙する。
 呆然と見つめる瞳。
 まさか、わたしが玲くんに食ってかかるとは思わなかったという表情だ。

(分かりやすい子)

 苦笑すれば、ビクリと彼女の肩が跳ね上がる。

「大丈夫。怒っていないから」

 安心させるようになるべく穏やかな声に務める。
 怯えた眼差しが緩んだ気がした。


「わたしの元にやって来たのは、それだけ彼が好きだったから? でもね、暴力はいけない。そんなことをすると貴女の品性に傷が付くし、嫌なことをしたら、巡り巡って自分に返ってきちゃうよ」

 少し説教じみてしまったかなと、照れ臭くなる。
 彼女は押し黙った後。か細い声で謝罪した。
 今にも消え入りそうなそれにわたしは頷く。
 玲くんの耳のも届いたのだろう。彼は長い溜息を吐き出して「次はありません」と釘を刺して終わらせた。
 小さくなった背を見届けてから、彼と向き合う。


「桃子さんは時々大胆になりますよね」
「生意気だって嫌いになる?」
「なりません。むしろ貴女をもっと好きになる」
「ほんとに?」

 笑って答えると、彼はまた溜息を吐き出した。

「無自覚なのも困りものだ。また違った視点で貴女を好きになる人が増えそうですよ」
「そうかな?」

 それは彼の贔屓目というやつだろう。
 笑って流そうとすれば、彼がじとりとわたしを見下ろした。


「なんかやけに彼女に対して甘くありませんか?」

 彼の目ざとさにギクリと体が強張りそうになる。
 たしかにその自覚はあった。
 だって、その……。

「……さっきの彼女のこと。可愛いとでも思ったんじゃないですか?」

 あ、やっぱり見抜かれていた。
 そうです。小動物みたいで可愛いと思ってしまいました。

「桃子さんって可愛いものもそうですけど、小動物みたいな女性に甘いですよね」

 だてに貴女を見ていませんよ、と彼が語る。
 じっとりとした彼の視線の矢が突き刺さって痛い。

「でもね」
「なんです?」
「一番好きなのは玲くんだよ」
「当たり前です」

 憮然と答えた彼に、わたしは嬉しくなって続けた。

「でもね、きっと前ならあんな風に言い返さなかったと思う」
「そうですか?」
「うん。争うのはできるだけ避けたくて、口を噤んでいたよ」

 事実、彼と付き合う前は若手の女子社員に対してそうしていた。


「わたし。玲くんに恋をして、強くなったんだよ」

 恋は人を強くする。それはわたしにとって事実かもしれない。

「だって強くならないと、玲くんの隣に立てないと思ったから」

 そう続ければ、彼の頬が赤くなっている気がした。


「ね、玲くん。夜ご飯は何を食べたい? 帰国して疲れているだろうし、わたしが作るよ」
「なんでも。桃子さんの手料理ならなんでも好きです。むしろ桃子さんが好きです」


 そう話しながら左手を繋いで、マンションへと歩く。
 繋いだ二人の手には指輪が輝いていた。



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