孤高の弁護士は、無垢な彼女を手放さない
パスタを一口運び、ワインを軽く口に含んだ頃。一条はふとグラスを置き、紬のほうを見つめて言った。

「セクハラの件ですが……電話でも言ってましたけど、本当に大丈夫そうですか?」

心配の色が隠しきれない声に、紬はわずかに頷いた。

「はい。今のところは大丈夫です。部長の片山さんが、仕事の割り振りにも気をつけるよう、全体に周知してくれたんです。セクハラ事案として、上にも報告すると言ってくださいました」

そう答えながらも、表情には慎重な光が宿っていた。

一条は安心したように一息ついたが、少し肩をすくめて微笑んだ。

「……それならよかった。僕の出る幕でもなかったですね」

すると紬は、少しだけ首を振り、真っ直ぐに一条を見つめて言った。

「違います。一条さんがいたから、私は言えたんです。……それに、あの時、岩崎さんから引き離してくれなかったら――私、もっと何かされてたかもって思います」

一瞬、紬の瞳に影が差した。
その曇りを見て取るように、一条は少し目を細め、静かに、寄り添うような眼差しを送った。
無言のまま、言葉以上の「大丈夫だ」という気持ちが紬に伝わるような、あたたかい視線だった。

紬は、そんな彼の目を見つめながら、小さく息を吐いて言った。

「信じていなかったのは、私の方だったんです」

「……?」

「異動してきて数年が経ってるのに、私はずっと、周りの人を信じて相談することもなくて。何でも抱え込む癖があって……。ほら、大橋さんの件のときも」

思い出すように目を伏せる紬に、一条は一瞬表情を曇らせた。

「……大橋の件で面談したとき、あなたが怒鳴られているのに、すぐに止めに入らず……申し訳ありませんでした。あの後、倒れてしまったあなたを見て、すごく後悔しました」

その声には、過去を悔やむ確かな感情が滲んでいた。

紬はふっと笑いながら、首を横に振った。

「いえ。ああいうのも、本当は一条さんのように淡々と処理できなきゃいけないんですけどね」

笑みの中に、少しの自嘲と、少しの敬意があった。

静かなジャズの旋律が、テーブルに流れる空気を優しく包み込んでいた。
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