孤高の弁護士は、無垢な彼女を手放さない
帰宅した部屋は、いつものように静かだった。
ネクタイを外し、ジャケットを脱ぎ捨てるようにハンガーへかける。

シャツのボタンを外しながら、隼人は思考を振り払うようにバスルームへと向かった。

熱すぎない湯を肩に流し、ふと目を上げると、鏡の中に濡れた自分の姿が映っていた。

濡れた髪、無表情な顔。
どこか虚ろな目で鏡越しに自分を見つめる。
その視線の奥に、ふと、今夜の紬の笑顔が浮かんだ。

──あの子を、傷つけてはいけない。

胸の奥で、固く拳を握るような決意が生まれる。
「もう、同じ過ちは繰り返さない。
過去を言い訳にせず、人と真正面から向き合う」

鏡の中の自分に、誓いを立てるように目を逸らさず、心の中で言葉を刻んだ。

──そのときだった。

突然、理由もなく、目に熱いものが溢れてきた。
一筋、頬を伝う。

自分でも戸惑うほどに、それは静かで、あまりにも自然な涙だった。

なぜ泣いているのか──自分でもわからなかった。
怒りでも後悔でもない、ただ、胸の奥が少しずつ溶けていくような、痛くて、あたたかい感覚。

気づけば、肩を伝うシャワーの音に混ざって、涙がいくつも頬を伝っていた。

「……いつ以来だ、こんなの」

子どものころ以来、涙なんて流した記憶はなかった。
ずっと泣くことを忘れていたはずの自分が、今は確かに泣いていた。

そして隼人は、何も隠さずに泣けた今夜という時間が、何かを大きく変え始めていることに、まだ気づいていなかった。
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