孤高の弁護士は、無垢な彼女を手放さない
紬は、午後の定時を少し過ぎたタイミングで、部長席に呼ばれた。

「成瀬さん、先日の飲酒死亡事故、担当お願いできますか? 一条先生の事務所からも連絡が入ってます。遺族側で、示談はしない方向の強い意向です」

紬は軽く息をのんだ。
死亡したのは幼い子ども。

飲酒運転により、母親の目の前で即死。
事故直後、ニュースにもなり、社内でも話題になっていた。

「……承知しました。被害者家族に寄り添いながら、慎重に対応します」

端的にそう答えると、紬はデスクに戻り、早速担当案件として社内システムに登録。

事故発生日時、場所、加害者・被害者情報、損保会社の契約情報、自賠責の加入状況などを入力し、
関係書類一式をスキャンして案件フォルダに取り込んでいく。

後輩の西田が、気遣うように声をかける。

「成瀬さん……あの案件、きついですね」

「うん。でも、きついからこそ、ちゃんと向き合わなきゃいけないと思うの。被害者側が一番辛いんだから」

そう言いながら、紬は画面を見つめ、事実関係を一つずつ整理していく。

事故現場の見取り図、実況見分調書、母親の診断書、幼い男の子の死亡診断書。

一つひとつに目を通しながら、遺族がどれほどの絶望を味わったのかを想像して、胸の奥がぎゅっと締め付けられるような思いがした。

「飲酒運転……それも、深夜の。逃げ場なんて、なかったはずなのに」

一人つぶやくと、紬は深く息を吸い込み、気持ちを立て直す。

同じフォルダに、月島総合法律事務所の一条隼人の名前が添えられた連絡文書が届いていた。

『示談交渉は想定せず、刑事訴訟および民事訴訟を視野に入れた資料作成に着手します。』

その文面に、紬は静かにうなずいた。

──逃げられない責任を、きちんと取らせる。そのための備えを、今すぐ始めなければ。

背筋を伸ばしながら、彼女はフォルダのタブに「重大事案」と赤字で記録し、作業を続けた。
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