不器用なプロポーズ
彼の瞳が染まる時 ~四日目 誤解~
ゴウン、と重たい音を響かせながらエレベーターの駆動する音がする。
一体何階あるのかと思えるほど多く並んだ階層ボタンを、確認する事なくとにかく一階の分だけ指先で強く押し込んだ。
少しずつ、身体が降りていく感覚がする。
……どうして私、苛立ってるのかしら。
確かに先ほどの女性の態度は良いとは言えなかった。はっきり言って悪い部類だ。
けれど仕事上こんなのは多々ある事だったし、今更私が苛立つ理由にしては不自然だ。
なら、本当の理由は何だろう。
このひりつく様な痛みにも似た腹立たしさは、一体どこから来るのだろうか。
そう考えた処で、まるでスライドする様に三嶋社長と先ほどの美女の顔が浮かび上がった。無表情で、けれども整った容姿を持つ彼の隣に猫の目をした妖艶な女性が並ぶ。
思わず、唇をキツく噛みしめた。
私だけだと思っていた。
「あの場所」に居られるのは。
だけど、そうじゃなかった。
それどころか彼女は自由に出入りが出来る様だった。私と違って三嶋社長にそれを許されているらしい。
あの場所が、あの空間が、彼にとって心の内の様に思えていた。
私と彼だけが居られる世界の様に。
私は自惚れていたのだろうか。
―――私に傍に居て欲しいって言った癖に。
離れる事は許さないと、勝手に攫ってきた癖に。
沸々と、灼け付く様な感情が心を占めていく。
私に向けられた彼の言葉、彼の表情。それらを私は取り違えていたのだろうか。
まさかという思いとともに、重たい不安が心を過る。
ただの戯れにしては度が過ぎている様に思えるけれど、今私がここに居る時点で、これまでの彼への印象が違っていた事を知った。
何が本当なんだろう。
そう思ったところで、階下への到着を知らせる音が鳴り響く。
それに合わせてぐだついた思考を断ち切る。考えたって仕方ない。
とにかく今は三嶋社長に会うのが先決だ。
彼に聞けば判るだろう。何もかも。彼女が誰であるのかも。
簡単な事だ。ただそれだけの。そう結論付けて知らず俯いていた顔を上げる。
エレベーターの扉が開き、ロビーと思しき大きな空間が視界に広がった。紅茶色で纏められたシックな内装が格式の高さを窺わせる。
天井で燦然と輝くシャンデリアを目にしながら、私は数歩踏み出した。足元には、踊る様に軽やかな蔦柄の絨毯が一面に広がっていて、どこかエキゾチックな気配はまるで外界から隔離されているかの様に思えた。
上の部屋も素敵だったけど、全体的にとても上品で綺麗だわ。
やっぱり、私には見覚えが無いけれど。
ホテルマンの控える大きなカウンターに目をやると、日本人だろうか、亜細亜人と同じ顔立ちをした女性と、金色の髪をした精悍な男性が何人か居るのが確認できる。
視線の中央奥には、外へと繋がる正面玄関の扉があった。
そしてその美しい装飾の前に、見慣れたスーツ姿の男性が一人佇んでいるのが見える。
細いフレームの眼鏡を掛けて完全に仕事モードの装いは、まるで私がまだ社内に居るかの様な錯覚を起こさせた。
七年間ずっと見ていた光景に、灼け付いた心が穏やかさを取り戻す。ほっと胸を撫で下ろし、丁度会う事が出来て良かったと安堵した。
正直、出てきたのはいいもののいつ三嶋社長が帰ってくるのか判らなかった。彼女の出現に少々パニックを起こしていたのかもしれない。
仕事をしているのに、会社や世間とは離れた場所に居たせいで感覚がぼやけてしまっていたのだろう。
今になって、自分が冷静さを失っていたのだと気が付いた。
いくら社長と顔見知りかも知れないといっても、あそこから離れたのは失敗だった。
三嶋社長に説明したら、すぐさま引き返すべきだろう。
そう考えた処で、三嶋社長に声をかけようと口を開きかけ、気が付く。
彼が、まるで立ち尽くす様に呆然とこちらを凝視していたのだ。
その表情の意味が判らなくて、思わず声を発するのを躊躇う。
まるでなぜ私がここに居るのかと、驚いているみたいな顔をしている。
そう言えば最初に交わした秘書契約の中に、最上階フロアから一歩たりとも外に出ない、という注意事項があったのを思い出した。しかもエレベーターは暗号ロック付き。彼が驚くのも無理は無い。
確かに今の私はそれに反しているが、そもそも自分の意思で出てきたと言うより無理矢理放り出されたのだから、これは無効に当たる筈だ。
……説明すれば、判ってくれるわよね?
秘書契約自体の不条理さも忘れて、私はそんな風に考えた。
けれど次の瞬間、向けられた冷たい空気に、びくりと身体が強張り愕然とする。
―――彼の視線が、私の身体を貫いていた。
見据えた瞳はそのままに、三嶋社長が足早に私の元へと歩んで来る。咄嗟に一歩後ずさったけれど、後ろにはエレベーターがあるだけで、それ以上は下がれなかった。
眼前に来て初めて、彼の身体から発せられる空気に冷たい激情が含まれていると気が付いた。
刺し貫かれるみたいな視線が、見上げた彼の瞳から注がれている。
恐い、と。
ここに来てから初めて、本当の意味で―――そう思った。
「あ、の」
無理矢理声を絞り出そうとした瞬間、がしりと肩を掴まれて、その驚きで言葉を無くす。
大きな手の指先が、痛いくらいに食い込んだ。
「社長――」
「君は、」
私の言葉が聞こえないかの様に、三嶋社長が苦し気な声を出した。痛みを堪える様な表情が彼の顔に閃いて、けれどすぐに消えたかと思えば、かつて見慣れた無表情へと変化する。
そして彼の黒い瞳の中に、海の底の様な色が浮かんで、初めて見る獰猛な光が灯された。
「み、しま社長……?」
「そんなに俺から、離れたいのか」
言いかけた言葉を繋ぐように、重い声が続く。同時に、ふっと自嘲めいた笑みが形作られた。
咄嗟にまずい、と警鐘が響いたけれど、身体は言う事を聞かなくて。
痛みを感じる程強く掴まれた肩が、圧迫されて熱を持つ。
違う、と叫びそうになった時、三嶋社長にぐいっと身体を丸ごと移動させられた。
すると後ろにあったエレベーターが、いつの間に動いていたのか、到着した音を再び響かせ扉を開く。
目を向けると、中からは先ほどの猫目の美女が、私達二人を見て表情を険しく歪めながら現れた。その顔には、「何故まだいるのか」と私を責める様な意思が込められている。
「お前、なぜここに」
彼女の顔を目にした途端、三嶋社長が厳しい声を放った。
「ご挨拶ね。私が来るとマズイわけ? せっかく顔見に来て上げたのに」
「お前が彼女を出したのか」
エレベーターを降りた美女に、三嶋社長は嫌悪すら含ませた声で言う。
「ああ、この人が自分から乗ったのよ。帰りたいんですって。そうでしょう?」
「違っ……痛、」
違う、と言おうとして言葉に詰まる。三嶋社長に掴まれた箇所が痛んだからだ。それは一瞬だったけれど、私は衝撃のあまり言葉を続けられなくなった。
「っ」
三嶋社長が一瞬、私へと視線を映す。
彼は呆然としていて、黒い瞳には後悔の色が滲んでいた。
酷く傷ついた表情だった。
―――違うのに。
出て行けって言われただけなのに。
―――貴方の帰りを、待っていたのに。
そう答えたいのに、喉が干上がったみたいに声が出ない。掴まれた部分越しに、三嶋社長の身体の強張りを感じた。
「帰りたいんだから放っておいてあげなさいよ。それより尚悟―――」
「っ黙れ!」
私達の視線の間に挟まれた彼女の言葉を、三嶋社長が掻き消した。
そしてそのまま、私の腕を掴み無言でエレベーター内へと突き進んで行く。
「ちょっと尚悟!?」
「付いて来るなっっ!!」
背後から掛けられた彼女の声を怒号で跳ね返し、三嶋社長は乱暴な手つきでボタンを叩き扉を閉めた。
一体何階あるのかと思えるほど多く並んだ階層ボタンを、確認する事なくとにかく一階の分だけ指先で強く押し込んだ。
少しずつ、身体が降りていく感覚がする。
……どうして私、苛立ってるのかしら。
確かに先ほどの女性の態度は良いとは言えなかった。はっきり言って悪い部類だ。
けれど仕事上こんなのは多々ある事だったし、今更私が苛立つ理由にしては不自然だ。
なら、本当の理由は何だろう。
このひりつく様な痛みにも似た腹立たしさは、一体どこから来るのだろうか。
そう考えた処で、まるでスライドする様に三嶋社長と先ほどの美女の顔が浮かび上がった。無表情で、けれども整った容姿を持つ彼の隣に猫の目をした妖艶な女性が並ぶ。
思わず、唇をキツく噛みしめた。
私だけだと思っていた。
「あの場所」に居られるのは。
だけど、そうじゃなかった。
それどころか彼女は自由に出入りが出来る様だった。私と違って三嶋社長にそれを許されているらしい。
あの場所が、あの空間が、彼にとって心の内の様に思えていた。
私と彼だけが居られる世界の様に。
私は自惚れていたのだろうか。
―――私に傍に居て欲しいって言った癖に。
離れる事は許さないと、勝手に攫ってきた癖に。
沸々と、灼け付く様な感情が心を占めていく。
私に向けられた彼の言葉、彼の表情。それらを私は取り違えていたのだろうか。
まさかという思いとともに、重たい不安が心を過る。
ただの戯れにしては度が過ぎている様に思えるけれど、今私がここに居る時点で、これまでの彼への印象が違っていた事を知った。
何が本当なんだろう。
そう思ったところで、階下への到着を知らせる音が鳴り響く。
それに合わせてぐだついた思考を断ち切る。考えたって仕方ない。
とにかく今は三嶋社長に会うのが先決だ。
彼に聞けば判るだろう。何もかも。彼女が誰であるのかも。
簡単な事だ。ただそれだけの。そう結論付けて知らず俯いていた顔を上げる。
エレベーターの扉が開き、ロビーと思しき大きな空間が視界に広がった。紅茶色で纏められたシックな内装が格式の高さを窺わせる。
天井で燦然と輝くシャンデリアを目にしながら、私は数歩踏み出した。足元には、踊る様に軽やかな蔦柄の絨毯が一面に広がっていて、どこかエキゾチックな気配はまるで外界から隔離されているかの様に思えた。
上の部屋も素敵だったけど、全体的にとても上品で綺麗だわ。
やっぱり、私には見覚えが無いけれど。
ホテルマンの控える大きなカウンターに目をやると、日本人だろうか、亜細亜人と同じ顔立ちをした女性と、金色の髪をした精悍な男性が何人か居るのが確認できる。
視線の中央奥には、外へと繋がる正面玄関の扉があった。
そしてその美しい装飾の前に、見慣れたスーツ姿の男性が一人佇んでいるのが見える。
細いフレームの眼鏡を掛けて完全に仕事モードの装いは、まるで私がまだ社内に居るかの様な錯覚を起こさせた。
七年間ずっと見ていた光景に、灼け付いた心が穏やかさを取り戻す。ほっと胸を撫で下ろし、丁度会う事が出来て良かったと安堵した。
正直、出てきたのはいいもののいつ三嶋社長が帰ってくるのか判らなかった。彼女の出現に少々パニックを起こしていたのかもしれない。
仕事をしているのに、会社や世間とは離れた場所に居たせいで感覚がぼやけてしまっていたのだろう。
今になって、自分が冷静さを失っていたのだと気が付いた。
いくら社長と顔見知りかも知れないといっても、あそこから離れたのは失敗だった。
三嶋社長に説明したら、すぐさま引き返すべきだろう。
そう考えた処で、三嶋社長に声をかけようと口を開きかけ、気が付く。
彼が、まるで立ち尽くす様に呆然とこちらを凝視していたのだ。
その表情の意味が判らなくて、思わず声を発するのを躊躇う。
まるでなぜ私がここに居るのかと、驚いているみたいな顔をしている。
そう言えば最初に交わした秘書契約の中に、最上階フロアから一歩たりとも外に出ない、という注意事項があったのを思い出した。しかもエレベーターは暗号ロック付き。彼が驚くのも無理は無い。
確かに今の私はそれに反しているが、そもそも自分の意思で出てきたと言うより無理矢理放り出されたのだから、これは無効に当たる筈だ。
……説明すれば、判ってくれるわよね?
秘書契約自体の不条理さも忘れて、私はそんな風に考えた。
けれど次の瞬間、向けられた冷たい空気に、びくりと身体が強張り愕然とする。
―――彼の視線が、私の身体を貫いていた。
見据えた瞳はそのままに、三嶋社長が足早に私の元へと歩んで来る。咄嗟に一歩後ずさったけれど、後ろにはエレベーターがあるだけで、それ以上は下がれなかった。
眼前に来て初めて、彼の身体から発せられる空気に冷たい激情が含まれていると気が付いた。
刺し貫かれるみたいな視線が、見上げた彼の瞳から注がれている。
恐い、と。
ここに来てから初めて、本当の意味で―――そう思った。
「あ、の」
無理矢理声を絞り出そうとした瞬間、がしりと肩を掴まれて、その驚きで言葉を無くす。
大きな手の指先が、痛いくらいに食い込んだ。
「社長――」
「君は、」
私の言葉が聞こえないかの様に、三嶋社長が苦し気な声を出した。痛みを堪える様な表情が彼の顔に閃いて、けれどすぐに消えたかと思えば、かつて見慣れた無表情へと変化する。
そして彼の黒い瞳の中に、海の底の様な色が浮かんで、初めて見る獰猛な光が灯された。
「み、しま社長……?」
「そんなに俺から、離れたいのか」
言いかけた言葉を繋ぐように、重い声が続く。同時に、ふっと自嘲めいた笑みが形作られた。
咄嗟にまずい、と警鐘が響いたけれど、身体は言う事を聞かなくて。
痛みを感じる程強く掴まれた肩が、圧迫されて熱を持つ。
違う、と叫びそうになった時、三嶋社長にぐいっと身体を丸ごと移動させられた。
すると後ろにあったエレベーターが、いつの間に動いていたのか、到着した音を再び響かせ扉を開く。
目を向けると、中からは先ほどの猫目の美女が、私達二人を見て表情を険しく歪めながら現れた。その顔には、「何故まだいるのか」と私を責める様な意思が込められている。
「お前、なぜここに」
彼女の顔を目にした途端、三嶋社長が厳しい声を放った。
「ご挨拶ね。私が来るとマズイわけ? せっかく顔見に来て上げたのに」
「お前が彼女を出したのか」
エレベーターを降りた美女に、三嶋社長は嫌悪すら含ませた声で言う。
「ああ、この人が自分から乗ったのよ。帰りたいんですって。そうでしょう?」
「違っ……痛、」
違う、と言おうとして言葉に詰まる。三嶋社長に掴まれた箇所が痛んだからだ。それは一瞬だったけれど、私は衝撃のあまり言葉を続けられなくなった。
「っ」
三嶋社長が一瞬、私へと視線を映す。
彼は呆然としていて、黒い瞳には後悔の色が滲んでいた。
酷く傷ついた表情だった。
―――違うのに。
出て行けって言われただけなのに。
―――貴方の帰りを、待っていたのに。
そう答えたいのに、喉が干上がったみたいに声が出ない。掴まれた部分越しに、三嶋社長の身体の強張りを感じた。
「帰りたいんだから放っておいてあげなさいよ。それより尚悟―――」
「っ黙れ!」
私達の視線の間に挟まれた彼女の言葉を、三嶋社長が掻き消した。
そしてそのまま、私の腕を掴み無言でエレベーター内へと突き進んで行く。
「ちょっと尚悟!?」
「付いて来るなっっ!!」
背後から掛けられた彼女の声を怒号で跳ね返し、三嶋社長は乱暴な手つきでボタンを叩き扉を閉めた。