『天空の美容室』 ~あなたと出会って人生が変わった~
✂ 第3章 ✂ 夢丘愛乃

(1)


「モデルになっていただけませんか?」

 次のステップへ行くための大事な試験を直前に控えた日、夢丘は先輩美容師に頭を下げた。
 その試験は幼い頃からの夢を叶えるためにどうしても越えなければいけないハードルであり、祖母との約束を果たすための第一歩でもあった。

 秋田で生まれた夢丘は小さい頃から典型的なおばあちゃん子で、祖母が経営する美容室に入り浸っていた。
 淀みなくカットを入れる手捌きが大好きで、何時間でも見ていられた。
 パーマの施術を見るのも好きだった。
 横巻きや縦巻き、三つ編みやねじり巻きやスパイラルなど、自由自在にウェーブをかけていくしなやかな手の動きは、まるで魔法をかけているように思えた。
 だから、祖母と一緒に働きたいという夢が芽生えたのは自然なことだった。

 しかし、高校2年の時、突然、祖母が脳梗塞で倒れた。
 幸いなことに一命は取り止めたが、残酷な後遺症が残った。
 右半身の麻痺だ。
 懸命なリハビリによって杖歩行ができるようになったし、介助があれば服を着たり脱いだりできるようになったが、利き腕である右手の指を思う通りに動かすことはできなかった。ハサミを操ることもロッドを巻くこともできなかった。
 それは、美容師として到底受け入れられないものだった。
 祖母が店を閉める決断をするのに時間はかからなかった。

 それでも祖母の技を受け継ぎたいという思いを捨てることはできなかった。
 高校を卒業したら美容師養成学校に入って、国家資格を取り、祖母の指導の下で店を再開したいと両親に告げた。

 ところが、強固に反対された。
 人口減少が続いている上に全国一の過当競争となっている秋田で美容室をやるのは無謀だと突っぱねられた。

 言われてみれば、その通りだった。
 1956年に135万人でピークを打った秋田の人口はその後減り続けて、2017年には遂に100万人を切ってしまった。
 更に、2040年には70万人まで落ち込むという予測さえ出されている。
 県が消滅するかもしれない危機に瀕しているのだ。

 対して、美容室の数はそれほど減っていない。
 そのため、人口1,000人当たりの美容室数は3.1と全国平均の2を大幅に上回り、全国1位となっている。
 それは、〈身だしなみに気を遣う〉という県民性によるものではあるが、一方、産業の乏しい秋田で働くところが少ないということも影響しているに違いなかった。

 それらの事実を突きつけられた夢丘は苦悶した。
 美容師養成学校を卒業して一人前になるための時間と、祖母の顧客が離れていってしまう可能性と、益々悪化するであろう秋田の置かれている状況を考えると、夜も眠れなくなった。不安だけがどんどん増していった。

 考えた挙句、祖母の店を継ぐという夢はすっぱりと諦めた。
 どんなに頑張っても環境は変えられないからだ。
 人口減少と過当競争はどうすることもできない。

 それでも、美容師になるという夢は諦めなかった。
 優れた腕を持つ祖母の血が流れているのだ。
 それを絶やすわけにはいかない。
 頑張って秋田一の美容師になれば生活に困ることはないだろうし、祖母も喜んでくれるはずだ。

 それを告げると、祖母は涙を流して喜んでくれた。
「ありがとう」と何度も言われた。
 それでも、秋田で美容師になることには反対された。
 どうせやるなら東京へ行けと言うのだ。

「お金は出してやる。やるからには日本一の美容師を目指しなさい」

 そう言って握ってくれた左手は温かかった。
 夢丘は素直に頷いた。

        *

 高校卒業後、東京で一人暮らしをしながら美容師養成学校で2年間学び、美容師の国家試験に合格して、今の美容室に就職した。
 人気の街、吉祥寺の商店街の中にある名の知れた美容室だった。

 その時に立てた目標は、10年後、つまり30歳までに独立することだった。
 だから生活のすべてを仕事と練習に費やした。
 それでも現実は厳しく、入室して3か月間は掃除と雑用しかさせてもらえなかった。
 床に散らばった髪の毛の掃除、お客様が帰ったあとの床掃除、シャンプー台の掃除、窓ガラスの拭き掃除など、毎日毎日同じことの繰り返しだった。
 でも、そんな状況にあっても、仕事の合間に先輩美容師の技を盗むことを怠ることはなかった。
 目に焼き付け、空中で手を動かして真似た。

 店が閉まると、同期の新人たちとシャンプーなどの練習に励んだ。
 客に見立てて練習するのだ。
 毎日毎日、掃除と雑用とシャンプーの練習をひたすら繰り返した。

        *

 その成果を披露する時がやってきた。
 洗髪の試験だ。
 先輩美容師を客に見立てて接客をしながらシャンプーやマッサージを行うのだ。

 店長や先輩が見守る中で試験が始まった。
 緊張で手が震えたが、これに合格しなければ更に3か月間、掃除だけの日々が続く。
 夢丘は練習の成果を出すべく必死になって頑張った。

 新人3人の実技が終わると、店長と先輩がそれぞれ採点し、その結果を店長が告げた。
 夢丘を含む2人は合格したが、1人は不合格だった。
 不合格だった彼女は1週間後に辞めていった。
 努力した者には女神が微笑み、そうでない者には厳しい道が待っている、それが現実だった。

 その後も3か月ごとに試験があった。
 ヘアカラーの試験やパーマの試験などが次々と行われた。
 残った2人は合格を続け、次の試験に備えて練習に明け暮れた。

        *

 最後の試験はカットだった。
 これに合格すればお客様担当になれるので、カット用の人形で練習を重ねた。
 更に、閉店後、お互いの髪を切り合った。
 就職した時は2人ともロングヘアだったが、今ではショートヘアになっていた。

        *

 あっという間に日は経ち、試験が目前に迫った時、先輩美容師に頭を下げた。
 カットモデルになってもらえるかどうか心配だったが、快く協力してくれた上に、貴重なアドバイスをいくつもしてくれた。

 そのお陰もあって合格することができた。
 同期も合格したので、手を取り合って喜んだ。
 ところが、その喜びは店長の言葉によってかき消された。

「来月、新人美容師のカット・コンテストがある。そのコンテストに参加しなさい。入賞すればお客様担当美容師として処遇する」

 そんなことは聞いていなかった。
 信じられず、唖然とした。
 それでも、愚痴を言っても始まらないと気持ちを切り替えて、同意した。
 ところが、同期は違っていた。
 「約束が違う」と憤慨して、店を辞めたのだ。
 夢丘は動揺したが、同調することはなかった。
 どんな困難にも立ち向かう覚悟ができていたからだ。
 秋田で応援してくれている祖母の顔を思い浮かべながらコンテストに臨んだ。

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