『天空の美容室』 ~あなたと出会って人生が変わった~

(3)


 私の売り……、
 差別化……、

 夢丘は考え続けていたが、何一つこれはというものは浮かんでこなかった。
 もちろん、やりたいことはわかっている。
『お客様に輝きを与えることができる美容室』を作ることだ。
 髪だけでなく、全身を素敵にしてあげて、トータルの美を提供できる美容室を作り上げるのだ。
 だから、ヘアデザインだけの美容室は考えていなかった。
 エステもネイルもメイクも着付けもできる総合美容室を目指しているのだ。
 そのために講習を受けて、管理美容師の資格を取得した。
 衛生管理の責任者として店のマネジメントをする準備はできているのだ。 

 でも、グランドデザインは描けていても、自分のことを棚卸しするということはまったく考えたことがなかった。
 他の美容師と違う『自分だけの売り』という観点で考えたことなど一度もなかった。
 差別化という言葉は頭の中にまったく存在していなかった。
 必死になって練習をして技術を向上させれば、それだけでお客様が付いてきてくれると思っていた。
 だけど、それだけでは差別化=自分だけの売り、にはならない。
 そのことに気づかされた。
 優れた美容師は山ほどいるのだ。
 経験が数年しかない自分が、ましてや、トップデザイナーではない自分が前面に打ち出せるアピールポイントは何もないのだ。

 それでも、自分の店を持ちたいという想いを止めることはできなかった。
 一旦火が付いたハートの炎を静めることはできないのだ。

 夢丘は秋田の方を向いて、手を合わせて、頭を下げた。
 祖母に救いを求めた。
 導きを求めた。
 何らかの答えが返ってくることを信じて、ひたすら待ち続けた。
 でも、いつまで経っても優しい声は聞こえてこなかった。
 夢の中にも現れてはくれなかった。

        *

「どうしたらいいんでしょう」

 寝不足だろうか、生気のない表情で夢丘から見つめられた。
 どんなに考えても自分の売りが見つからないというのだ。
 技術と接客には自信があるが、それが抜きんでているかどうかを判断することは難しいという。

 それはそうだろう。
 美容室の数はコンビニよりも5倍ほど多いと言われていて、美容師の数は東京都だけでも8万人ほどもいるのだ。
 自分の立ち位置を知るのは簡単ではない。
 いや、難しい。
 でも、そんなことを指摘しても、なんの解決にもならない。
 落ち込ませるだけだ。
 といって、何かアイディアがあるわけではない。
 アドバイスができるほど業界のことを知っているわけもなく、彼女を救う手立ては何も持っていないのだ。
 ただじっと傍にいてあげることしかできない。

「やっぱり無理かな……」

 黙って見つめていると、切なそうな声が漏れた。
 明らかに落ち込んでいた。

「いや、そんなことはない」

 とっさに口をついた。
 これ以上、放っておけなかったからだが、次の言葉があるわけではなかった。

「でも、」

 すこしでも慰めになればと思ったが、表情は変わらなかった。
 左手を口に置いて、目を伏せた表情からは、生気が感じられなかった。

 いたたまれずカップを手に取ったが、コーヒーは完全に冷めていた。
 一口すすると、苦味だけが胃に落ちていった。
 自分たちの他に客がいない喫茶店は沈鬱に包まれ、クラシックの調べがそれを増長していた。

「ごめんなさい」

 顔を上げた目には涙が溜まっていた。
 瞬きをしたら零れ落ちそうだった。

「とにかく、」

 何かを言わなければと思って頭に浮かんだ言葉を口に出したが、意外にもそれが次の言葉を運んできた。

「誰かに相談してみようよ」

 2人で考えても埒が明かないのだから、別の角度から見てくれる人の意見を聞いた方がいいのではないかと話を継いだ。

「でも、誰に?」

「それは……、う~ん」

 唸った時、突然、男の顔が浮かんできた。
 神山だった。
 ベンチャー企業を数多く見ている彼なら何らかのアドバイスをしてくれるのではないかと思った。
 それを告げると、彼女の表情から暗い影が消えた。
 わたしは彼にコンタクトを取ることを約束して、彼女と別れた。

        *

 翌週の火曜日、わたしと夢丘は神山不動産の応接室にいた。
 事前に用件を伝えていたから、単刀直入に話を切り出した。
 彼は真剣に耳を傾けてくれた。

「話はよくわかりました」

 それまで黙って聞いてくれていた神山が頬を緩めて、頷きを返してくれた。
 しかし、すぐに穏やかな表情は顔から消えた。

「ただ、われわれの投資先はあくまでも企業であって、個人には行っていませんので、前例がありません。検討はさせていただきますが」

 そこで声を切った。
 難しいことを承知してもらいたいというように。

 わたしは頷きを返して、横に座る夢丘を見た。
 瞬きもせず、じっと神山を見つめていた。
 目を離したらすべてが終わってしまう、そんな気持ちがそうさせているようだった。
 わたしはもう一度、神山に視線を戻した。

「無理な頼みだとはわかっているけど、個人への投資という観点ではなく、美容室事業への投資、もしくは女性向け事業への投資という観点で検討してくれないかな。なんとか、よろしく頼みます」

 頭を下げると、夢丘もすぐに追随した。

「よろしくお願いいたします」

「わかりました」

 神山の声は穏やかだった。

< 22 / 51 >

この作品をシェア

pagetop