『天空の美容室』 ~あなたと出会って人生が変わった~
(3)
「いらっしゃいませ。おはようございます」
10時ちょっと前に店に入ると、明るい声が迎えてくれた。
受付の人だけでなく、施術をしている人の声も混じっていた。
それがとても自然だったので、ちょっと気持ちがほっこりした。
カウンターの前に立つと、口を開く前に名前を言われた。
視線を下に落とすことなく目を真っすぐ見て言ったので、予約表を確認したわけではなかった。
もちろん、朝礼で今日の来店客の名前を確認しているだろうから頭に入っていたのだとは思うが、それにしても自然で素晴らしかった。
やっぱりここで良かった。
選択が間違いでなかったことに安堵した。
ほとんど待つこともなく、席に案内された。
雑誌はどれがいいか訊かれたので、男性誌と答えると、「畏まりました」という返事がきびきびと返ってきた。
少しして戻ってきた彼女は、雑誌を鏡の横に置くと、すぐにネックペーパーを巻いて、ケープで体を覆った。
そして、「少々お待ちください」と言って離れていった。
わたしは雑誌を手に取ってパラパラとめくり始めたが、ほどなくして店長が席にやって来た。
「お待ちしておりました」
鏡の中で白い歯が爽やかに笑っていた。
「カットはいかがいたしましょう?」
わたしは躊躇わずに考えていたことを伝えた。
「この顔に合った髪型にしてください」
今までは行きつけの理容室で伸びた分だけ切ってもらっていたが、今日は人生を変える日なので、すべて任せることに決めていたのだ。
すると、店長はちょっと驚いたように目を見開いた。
確かに、いきなりそんなことを言われても、すぐには対応できないだろう。
だから、理由を言った方がイメージが湧くかもしれないと思って、若白髪とネコ毛と広いおでこに劣等感を持っていることを伝えた上で、転職するので思い切って髪型を変えたいと伝えた。
そして、「好きなように切っていただいて結構です」とも付け加えた。
「承知いたしました」
淀みのない声が戻ってきた。
顔が引き締まったように見えた。
戸惑いの表情は消えていた。
わたしは頷いて、目を瞑った。
*
「これでいかがでしょう?」
声に反応して目を開けると、鏡の中に新しい自分がいた。
髪はかなり短くなっていた。
今までは広いおでこを隠すように前髪を下ろしていたが、おでこのほとんどが丸見えになっていたし、それに合わせるように横も後ろも短くなっていた。
でも、悪くなかった。
というより、気に入った。
おでこを出すことによって、なんか知的な感じが出ていたし、髪が全体的にふんわりとしていた。
「ふわっとボリュームが出るようにカットしました」
確かに、ペッタンコだったてっぺんがふわっとした感じで浮き上がっていた。
「パーマをかけるともっとふわっとしますが、今日はカットだけでやってみました」
どうでしょうか、というように鏡越しに見つめられた。
「とってもいいです。気に入りました」
「良かった」
嬉しそうな笑みが返ってきた。
「では、今日は初めて髪を染められるということなので、少し説明をさせていただきます」
それを聞いて、ちょっと緊張した。
染めると髪が痛むことがあると雑誌に書いてあったからだ。
「カラーリングは薬剤を使いますので、どうしても髪にダメージが出ることがあります。その事を先ず、お含みおきください」
真っ先に聞きたいことを言ってくれたので、昨夜考えた質問をぶつけた。
「ダメージを与えないで髪を黒くすることはできませんか?」
「そうですね~、ダメージが少ないものとしてはヘアマニキュアというのがあります」
「ヘアマニキュア、ですか」
「そうです。ヘアカラーは脱色してから色を入れていきますが、ヘアマニキュアは脱色せずに髪にマニキュアしていくのです。爪に塗るマニキュアのことをご想像ください」
「髪にマニキュアですか……」
よくわからなかったが、ヘアカラーとヘアマニキュアの違いを解説した小冊子を見せながら説明してくれたので、理解することができた。
「違いはよくわかりました。それで、どっちがお勧めですか?」
「そうですね~、髪を黒く染めるのは初めてでしたよね。それなら、今日は髪に負担が少ないヘアマニキュアがいいかもしれませんね」
勧めてもらいたかった方を勧めてくれたので、「それでお願いします」と返すと、店長は店内を見回してから、「よしの!」と声を出した。
するとすぐに若い女性美容師が近づいてきた。
「こちらのお客様にヘアマニキュアをお願いします」
「はい。承知いたしました」
店長が離れると、「担当させていただきます」とお辞儀をした。
とても礼儀正しくて感じが良かったので、これからの施術に対する心配が嘘のように消えた。
*
カットと違って今度は目を開けて作業を見ていると、両耳に色がつかないようにカバーをかけてから、ヘアマニキュアを塗布する作業が始まった。
プシュという音と共に黒い泡のようなものがブラシの櫛の間から出てきたと思ったら、それを髪を梳かすようにつけていき、数分で髪が黒くなった。
髪型はオールバック、つまり、すべての髪が後ろに撫でつけられていた。
「このまま15分ほど置きますので、雑誌でもお読みになってください」
そして、タイマーをセットし、「コーヒーになさいますか、それともお茶がよろしいですか」と尋ねてきた。
「コーヒーを、ホットでお願いします」
「お砂糖とミルクはいかがいたしましょう」
「二つともお願いします」
運んできてくれたコーヒーを飲みながら、さり気なく店内を観察した。
客は全員女性で、美容師との会話に夢中になっていた。
自分のこと、家族のこと、仕事のこと、趣味のこと、いろんな会話が飛び交っていたが、プライバシーに関する内容が多かったので驚いた。
そんなことまで話すんだ……、
わたしの耳はダンボになった。
その時、
「よしの!」
店長がまた彼女を呼んだ。
何かを指示しているようだった。
吉野さんか~、
頭の中で漢字に変換したわたしは彼女に向かって、〈これからも担当になってくれたらいいな〉とキビキビ動く姿を見ながら心の声をかけた。
*
タイマーが鳴って彼女が戻ってくると、ヘアマニキュアを洗い流すためにシャンプー台へ連れて行かれた。
専用の席に座ると、背もたれが倒され、ほとんど水平の状態になった。
目にガーゼか何かを置かれると、水の流れる音が聞こえた。
温度調節をしているのか、手で確認しているような様子に思えた。
すると、髪にぬるま湯が当たり、丁寧に洗い流し始めた。
それが終わると、シャンプーが始まった。
体が触れそうな距離にいる彼女から甘い香りがした。
若い女性特有の香りだったのでうっとりしていると、「お客様は初めてのご来店でいらっしゃいますので、サービスでヘッドスパをさせていただきます」という声が耳に届いた。
でも、意味がわからなかった。
それで黙ってじっとしていると、彼女の手が優しく頭皮に触れ、ゆっくりとマッサージが始まった。
あ~、と思わず声が出そうになるほど気持ちが良かった。
若い女性に頭のマッサージをしてもらえるなんて初めてだったので、ここは極楽かと思ったほどだ。
今までは理容室で初老の男性にゴシゴシと髪を洗われるだけだった。
40歳になるまでこんなに気持ちの良い頭のマッサージがあるなんて知らなかった。
ほわ~んとした感じになっていると、「温かいタオルを首の下に置きますね」と言って、じわ~っと程よい温度のタオルを首の下に差し込んでくれた。
あ~、気持ち良すぎる。
心の中がバラ色になった。
わたしがいるのは天国だろうか?
もしそうだったらこのまま永遠に続いて欲しい。
真剣にそう思った時、トリートメントが始まった。
それからまた頭皮マッサージが行われて、心がフニャフニャになった頃、「お疲れさまでした」と体を起こされた。
元の席に戻って、髪を乾かせたあと、今度は肩と首のマッサージが始まった。
「凝ってますね」
彼女の指が的確にツボを捉えた。
「うっ」
「強すぎましたか?」
「いや、効いてます。しっかり効いてます」
このまま死んでもいいと思うくらい気持ちが良かった。
マッサージが終わると、店長が来て、髪型を整えてくれた。
「別人になりましたね。10歳は若くなりましたよ」
そして笑みを浮かべて、「なっ、よしの!」と言うと、「素敵ですよ」と彼女が笑った。
素敵……、
生れて初めて言われた、女性から素敵って。
生きてて良かった!
そう思うと、涙ぐみそうになった。
それにしても、こんな素敵な美容室がこの世に存在するなんて思いもしなかった。
たんに髪をきれいにするだけでなく、人を幸せにする美容室なのだ。
パラダイスと言っても言い過ぎではないだろう。
いや、それだけではない。
人生を大きく変えてくれる場所でもあるのだ。
魔法の館と呼んでも過言ではないかもしれない。
そんなことを思いながら鏡に映る自分を見つめていると、明日から先に広がる希望という名の未来が見えたような気がした。